移動の途中で「国府多賀城」遺跡周辺に。
これまで不思議と一度もきちんと見たことがなかったことに気付く。
周辺は、たぶん史跡扱いになっているようなので、
ほぼ古代の状況を推し量れるような、そういう場の雰囲気が感じられる。
本日は東北とヤマト政権古代史への探究篇ブログであります。
古代の王権にとって、こういう「遠の朝廷」という一種の「都市」を建設するとき、
方位や位置の感覚はきわめて重要だっただろうと思われる。
中国的な風水思想を踏まえて建設地が選択されたに違いない、
とまでは容易に想定される、ということで立って見た。
写真は政庁建築の発掘位置がわかるように地面がマーキングされている。
2枚目の写真はその位置からほぼ真南と思われる方向を拡大した。
おおむね政庁は、鹽竈の湊の方向に対して正対している。
鹽竈は古名でいまは塩釜だろうけれど、
この湊、港は仙台湾で南に向かって開いている。
人的往来、畿内地域との交流においての海路の条件は重要ポイント。
鹽竈神社が古格な神社として重要な歴史的位置をもっていることがわかる。
先日、仙台市若林区にある「国分寺」遺跡をはじめて見たけれど、
その位置からはかなり離れているとされる。
古代国家は当初、政庁として「郡山官衙」を建設したとされ、
その位置は現在の仙台市太白区の長町地域だとされている。
その官衙「都市」との位置関係では国分寺の位置は妥当な距離感。
この多賀城は当初は、対蝦夷の軍事施設として建設されて
その後、この写真のような政庁施設を持つ古代都市として造営された。
そういった経緯で国府と国分寺が10km以上離れている。
この多賀城に立ってみると、この地がやや高台にあって、
鹽竈の湊から、まっすぐに北上する位置にあることになる。
古代の王権関連の人物にとって、この地に派遣されると言うことは
どんな心事だったのだろうかと推定してみる。
古歌によく謳われる「宮城野」とか、松島などの自然景観は詩心を刺激はしただろう。
そのようなフレーズを入れ込めば、畿内政権文化圏内で
「おお、やはり多賀城からの歌はこうでなければ」みたいな判じモノだったかも(笑)。
郡山官衙からこの多賀城に古代東北の政庁が移動したのには
やはり黄金の採掘という大きなインパクトが働いた気がする。
いまも「涌谷」というような地名が残っているけれど、
多賀城の北方にはこういう産金地域が後背として存在している。
・・・いっとき、古代の時間間隔、地域感覚に思いをはせてみた次第。
Posted on 2月 16th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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