写真は、広島県福山市の歴史博物館のもの。
中世の瀬戸内海交易、というか、歴史年代に於いて
瀬戸内海世界がどのような世界であったか、
そういう姿を明らかにしているのが
「草戸千軒」遺跡です。
「千軒」という表現は、たくさんの商業者の集まり、というような意味合いで
多くは海洋や河川でなどの流通拠点に成立し、
常設的な「市」が営まれたに相違ない、日本における都市の原型。
この博物館では、「草戸千軒」遺跡の再現展示が行われているのです。
博物館というのは、どうやっても権力者側の歴史認識から自由ではないのですが、
この博物館の展示は、民俗学的であり、
政治的な時代区分とはまったく違った歴史認識をもたらせてくれる。
こういう窓を開けて外の様子を見るという空間体験をしていると、
つい親しい友人のことが思い起こされて、
この家にいて、零細商業を営んでいるわたしを
かれが訪ねてくるような、そういうシーンが目に浮かんでくる。
河川の中州という立地条件は、境界地域であって、
誰のものでもないという空間性を持っていたように思われます。
多くの人民が公地に縛り付けられて公民にさせられていた時代から、
こういった地域では、それ以外の生き方が日本人に普遍的に存在した。
歴史年代を通して、日本人にはこういう自由な生き方が
ある意味で、保証されていたものと思います。
商工業者という、非農民としての生き様が明瞭。
歴史を考えていく、ひとつの典型的な立場を体験できて
非常に興味深く感じた次第です。
また、単純に、こういう開口部って、なかなか味があるなぁっと。
しばらくこういう時空間に浸っていたいと思ったワケですね。
Posted on 6月 17th, 2011 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
[…] 7回にわたって約1000年前ころの札幌の遺跡について探索をして見ましたが、やはり同時並行的に日本史上の遺跡も考えて見たい、ということで広島県東部・福山市の港湾遺跡「草戸千軒」再訪であります。 擦文の遺跡は約1000年前と言うことでしたがこの草戸千軒遺跡も約1000年前時期から4-500年前のころまで栄えていたとされています。ちなみに「千軒」というのは一種の比喩表現でたくさんの建築・住宅、それも商家や職人たちの集積した中世的都市ということ。瀬戸内海交易圏というものは日本史で大動脈的な役割を果たし続けてきた。 わたし自身の家系伝承では同じ瀬戸内海交易圏の姫路近くの「英賀千軒」に深い縁があり、そこが危機に陥ったとき、同族が商家として生き延びていたこちらの草戸千軒〜のちには尾道〜などの交易圏地域に活路を見出したという経緯をたどれる。江戸期には尾道を根拠地として「あがや」という商号で商家を営んでいた。 江戸期にはわが家の直接の家系が尾道から5-6kmで草戸千軒・福山との中間地点の「今津」という宿場町で商家を営んでいた。こちらの菩提寺墓域には直接のご先祖のお墓もある。 ちなみに尾道とこの草戸千軒地域は22-23kmという近距離。瀬戸内海の港としてはお隣り。草戸千軒都市は、現在の福山市内を流れる芦田川の瀬戸内海河口に立地していて、1673年に洪水で都市が流されたという記録があるそうですが、近距離である尾道と連携していた存在だと思います。 日本の商業の発展にとって瀬戸内海はその最大の中核地域。京大阪という日本の最大都市圏への船舶での物流の大動脈地域であり続けてきた。草戸千軒はその中継スポットとして非常に重要な役割を果たしてきた。 尾道は現代にまでつながる商業都市ですが、一方の草戸千軒は「幻の中世都市遺跡」。その遺跡については福山市中心部の城下公園に福山歴史博物館「草戸千軒ミュージアム」として記憶遺産化されているのです。写真は館内の中核的な展示で撮影許諾された原寸大復元遺構であります。 建築・住宅という目線でも非常に興味深い「庶民のくらしぶり」が約1000年近い時間を超えて迫ってくる。綿密な考証によって復元された建築群は強烈なリアリティを放射してくれる。こういった部分では、残念ですが札幌の擦文遺跡とは巨大な径庭がある。 以前にも一度このブログで紹介したのですが、最近ふたたび墓参の機会があって、ふたたびミュージアムを再訪。そこでまたいろいろな「気付き」が得られたので、シリーズで紹介したいと思います。 […]
[…] 7回にわたって約1000年前ころの札幌の遺跡について探索をして見ましたが、やはり同時並行的に日本史上の遺跡も考えて見たい、ということで広島県東部・福山市の港湾遺跡「草戸千軒」再訪であります。 擦文の遺跡は約1000年前と言うことでしたがこの草戸千軒遺跡も約1000年前時期から4-500年前のころまで栄えていたとされています。ちなみに「千軒」というのは一種の比喩表現でたくさんの建築・住宅、それも商家や職人たちの集積した中世的都市ということ。瀬戸内海交易圏というものは日本史で大動脈的な役割を果たし続けてきた。 わたし自身の家系伝承では同じ瀬戸内海交易圏の姫路近くの「英賀千軒」に深い縁があり、そこが危機に陥ったとき、同族が商家として生き延びていたこちらの草戸千軒〜のちには尾道〜などの交易圏地域に活路を見出したという経緯をたどれる。江戸期には尾道を根拠地として「あがや」という商号で商家を営んでいた。 江戸期にはわが家の直接の家系が尾道から5-6kmで草戸千軒・福山との中間地点の「今津」という宿場町で商家を営んでいた。こちらの菩提寺墓域には直接のご先祖のお墓もある。 ちなみに尾道とこの草戸千軒地域は22-23kmという近距離。瀬戸内海の港としてはお隣り。草戸千軒都市は、現在の福山市内を流れる芦田川の瀬戸内海河口に立地していて、1673年に洪水で都市が流されたという記録があるそうですが、近距離である尾道と連携していた存在だと思います。 日本の商業の発展にとって瀬戸内海はその最大の中核地域。京大阪という日本の最大都市圏への船舶での物流の大動脈地域であり続けてきた。草戸千軒はその中継スポットとして非常に重要な役割を果たしてきた。 尾道は現代にまでつながる商業都市ですが、一方の草戸千軒は「幻の中世都市遺跡」。その遺跡については福山市中心部の城下公園に福山歴史博物館「草戸千軒ミュージアム」として記憶遺産化されているのです。写真は館内の中核的な展示で撮影許諾された原寸大復元遺構であります。 建築・住宅という目線でも非常に興味深い「庶民のくらしぶり」が約1000年近い時間を超えて迫ってくる。綿密な考証によって復元された建築群は強烈なリアリティを放射してくれる。こういった部分では、残念ですが札幌の擦文遺跡とは巨大な径庭がある。 以前にも一度このブログで紹介したのですが、最近ふたたび墓参の機会があって、ふたたびミュージアムを再訪。そこでまたいろいろな「気付き」が得られたので、シリーズで紹介したいと思います。 […]