本文へジャンプ

【「戦後」を作った白洲次郎の家 武相荘-1】



知人のSNS発信を見ていたら町田市の一隅に面白い家があると知った。
町田は一時期、関東での拠点としても考えていた街なのでその来歴としても
興味を持った次第なのです。昨年機会があったので
住宅探訪として「古民家」的なものと考えて訪問してみた次第です。
町田は東京都だけれど神奈川県の北部にまるで「飛び地」のようにある。
東京の人に聞くと「あそこは神奈川(笑)」と答える街。
この家の亭主であった白洲次郎氏にもそういった気分があったのか、
家への名付けを「武相荘」としたのは武州(東京と埼玉)と相州(神奈川)の
端境意識があってそう名付けたとされている。
それに「無愛想」という掛詞をもじらせているあたり、才気のほとばしりを
自らこれ見よがし風なので、どうも、という気分にも襲われる。

白洲次郎さんは日本の実業家。貿易庁長官。兵庫県芦屋市出身。
連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し終戦連絡中央事務局や
経済安定本部の次長を経て商工省の外局で新設された貿易庁の長官を務めた。
吉田政権崩壊後は実業家として東北電力会長を務めるなど企業役員を歴任した。
〜という人物。家系は神戸圏の武家階級出身。明治期に貿易商として成功を納め、
父親はハーバードを出て本人もケンブリッジに学んでいたという家系。
昨年のNHK大河ドラマの渋沢栄一とも似た経緯の家系と思える。
明治から戦前・戦後と日本の「有力家系」という典型を見るようです。
おおむね近代日本はこういった家系が主流人脈を構成して営まれてきた。
そのなかで戦後日本形成で主導的な役割を担った人物といえるのでしょう。
「欧米社会を深く知る」人間として対英米戦争に日本がなだれ込んでいく時期に
その敗戦の必至なるを見通して農家を購入し、農業をしながら
この「武相荘」に籠もって敗戦を迎えた後、知友の吉田茂に請われて
戦後処理にあたっての基本政策、対米交渉など国家骨格に関わった。

いま訪れると、周辺の主要道路からやや高台に位置し、
下にはユニクロの店舗があるけれど、そういった現代とはタイムスリップ感で
「へぇ〜、いまでもこんな南関東の自然風土が・・・」
というような佇まいを見せてくれています。
「昔はこういう茅葺きの農家住宅がたくさんあった」という白洲の述懐が
展示記録されているのですが、まことに空気感が伝わる。
北海道から来た人間からすると垂涎のような気候風土ぶりがわかる。
札幌から一時期学生〜社会人時代を過ごした地域として
東京・神奈川にはカラダの一部に空気感が蓄積している気分がある。
ただ、この「武相荘」周辺のように都市化・一元化が押し寄せているので
気候風土が感じにくくなっている。そういう感覚が刺激されてきます。
・・・ということで数回「武相荘」探訪記を書いてみます。

English version⬇

[Jiro Shirasu’s house that made “postwar” Buaisou-1]
When I was watching my acquaintance’s SNS, I found out that there was an interesting house in a corner of Machida City.
Machida is a city that I was thinking of as a base in the Kanto region for a while, so even as a history
It depends on my interest. I had an opportunity last year
As a housing exploration, I thought it was an “old folk house” and decided to visit it.
Machida is in Tokyo, but in the northern part of Kanagawa prefecture, it looks like an “exilave”.
A town that answers “that is Kanagawa (laughs)” when asked by people in Tokyo.
Did Jiro Shirasu, the owner of this house, feel that way?
The name of the house was “Buaisou” in Musashi (Tokyo and Saitama) and Sagami (Kanagawa).
It is said that he named it because of his sense of alienation.
In addition, the slogan “unfriendly” is used to give a hint of ingenuity.
It’s a nice looking wind, so I feel like I’m afraid.

Jiro Shirasu is a Japanese businessman. He is the Commissioner of the Trade Agency. Born in Ashiya City, Hyogo Prefecture.
He was active as an aide to Shigeru Yoshida in Japan under the occupation of the Allied Forces, and was the Central Secretariat for the End of War.
After serving as Deputy Director of the Headquarters for Economic Stability, he was Secretary of the newly established Trade Agency as an external agency of the Ministry of Commerce and Industry.
After the collapse of the Yoshida administration, he served as a businessman and chairman of Tohoku Electric Power Co., Inc.
A person named. His family is from the samurai class in the Kobe area. He paid his success as a trader in the Meiji era,
His father is a family who left Harvard and learned from Cambridge.
It seems to be a family with a similar background to last year’s NHK Taiga drama Eiichi Shibusawa.
From the Meiji era to the pre-war and post-war eras, it seems to see the typical “influential family” of Japan.
In modern Japan, these families have generally formed a mainstream network of contacts.
Among them, it can be said that he played a leading role in the shaping of postwar Japan.
At a time when Japan is pouring into the War of 1812 as a person who “knows deeply about Western society”
In anticipation of the inevitable defeat, I bought a farmer and farmed
After being defeated in this “Buaisou”, he was asked by his friend Shigeru Yoshida.
He was involved in the national skeleton such as basic policies for postwar processing and negotiations with the United States.

When I visit now, it is located on a hill slightly above the main roads in the surrounding area.
There is a UNIQLO store underneath, but it feels like a time slip with the present age.
“Hey, even now, the natural climate of South Kanto is …”
It shows the appearance like that.
“In the old days, there were many such thatched-roof farmhouses,” says Hakushu.
The exhibition is recorded, but it really conveys the atmosphere.
From the perspective of humans from Hokkaido, we can see the coveted climate.
As an area where I spent a period of student-working days from Sapporo
In Tokyo and Kanagawa, there is a feeling that a feeling of air is accumulated in a part of the body.
However, as urbanization and unification are rushing around this “Buaisou”
The climate is hard to feel. That kind of feeling is stimulated.
So, I will write a trip to “Buaisou” several times.

One Response to “【「戦後」を作った白洲次郎の家 武相荘-1】”

  1. […]  さて3度目くらいの訪問になった「武相荘」参観。以前に全7回のシリーズ<第1回はこちら>で取り上げたので、まぁ基本的にはそれで完結しているのですが、訪問の度にちょっとずつ視点が変わっていることにも気付きます。  今回は住宅の住まい手のあるべき「自由度」と、それに対応できていた日本的「田の字型」間取りの奥行きについてまざまざと気付かされた次第。  なんですが、戦争の開始時期とほぼ同時期に東京での暮らしからこの地に移住した白洲さんの生き方にも強く惹かれている自分がいます。「金持ちのドラ息子」(笑)出自であって欧米留学からの人脈を持っていた白洲さんには敗戦は自然な成り行きだったことだろう。  そして吉田茂に請われて対米交渉の第一線でかれは活躍した。  日本国内での戦争推進派とは明確に道を分かって、敗戦必至と見ていたかれはなかば隠遁する。しかし敗戦後の総理をつとめた旧英国大使の吉田茂に請われ、戦後の立て直しに奔走する。吉田とは留学生時代からの旧知の仲だった。敗戦からの復興期に、かれのようなスタンスの人間は最適だっただろう。  現行憲法について「アメリカででも成立しない夢想的憲法」と占領軍の押しつけを批判的に語っている。占領軍のアメリカ側から「日本人で稀な原理原則を主張する硬骨漢」とみなされたという。アメリカ自身もこれが長く維持されるとは「夢想もしなかった」ものが70年以上も残っている。戦後日本は現実的に対応して冷静に復興の着地点を整理整頓していった。現実政治は一歩一歩でしか前進させられない。きれい事だけを言うのは非現実的であり民の暮らしにとって迷惑なのだ。  一方で生活環境としては、イマドキでいえば「テレワーク」最適の居住環境を求めたようにも思われる。そういう生き方の志向には廃・農家住宅は格好の住み処を提供した。  きのうも見たように暮らし方次第で融通無碍に千変万化する田の字間取りは「どうせ使い方はどんどん変わっていくし、手を加えていくのが自然だ」という住宅と暮らしへの透徹した達観を持っている人間からすれば、まことに環境としては最適だったのだろう。  そして今日ではWEB接続環境というカタチで「情報の自由」も加速してきているけれど、戦前戦後期の金持ちボンボンとしての高級外車は、ときどき東京都心を訪れなければならないときに、権力中枢への情報アクセスキーとして機能した。  たぶんこれから先の未来でも、この移動の自由は大きな領域を占めていくだろう。ビジネスはIT環境が整っていくことで居所に自由を与えたが、人類から「移動の自由」は決して奪えないだろう。たぶん始原期から人類の基本は「遊動」生活なのだと強く思う。 […]

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.