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【個人的空間記憶の不意打ち・羽目板テーブル面】

人間はいろいろな空間についての経験を積層させていく存在。
家づくりというのは、そういう体験に踏まえて
いったい自分の求めている空間性とはなにかと自問して
ある手掛かりを得て、特定の空間に解を見出していく営為。
定住という営為がはじまったとされる縄文から、たぶん1万数千年間、
この列島社会ではこうした自問自答を繰り返してきたのでしょうね。
現代にいたってはじめて、このことについての相当の「自由」を得たけれど、
その自由に十分に慣れ、行使できているのかはまだ不明だと思います。
こういった「空間への感受性」というものは、
必ずしも目的的なものとは言えず、過去に自分が遭遇したある体験が
強い思いとして、残滓のように意識の根っこに残っていて
ときどきそういう個人的な好みのようなモノが実体験でリフレインする。

先日、岩手県中部のある街でなにげに寄った
あるラーメン店のテーブルを見て、目が点になっていました。
写真のような、特段特徴的とも言えないテーブル面であります。
ただ、面が羽目板貼りになっていて、
その面が使い込んで、なんども布巾で拭かれていくうちに表面塗装が
なんとも微妙なグラデーションを見せていた。
このあわい人間の痕跡のようなモノが、無性にこころに刺さってきた。
テーブル面の羽目板貼りというのは、わたしが幼年時、
3才から10才くらいまでを過ごしていた札幌市中央区の家の
長い出窓の手前側に連続していた空間記憶を鮮明に呼び覚ましてくれた。
この出窓が作る平面がこうした羽目板で作られていた。
その羽目板は可動的になっていて、はずすとその下に収納装置があらわれた。
同じ意匠は、窓と並行した土間床をはさんだ靴を脱いだ後上がる床にも
幅60cmくらいであったように記憶している。
それらの羽目板は、この写真の羽目板のように塗装のグラデーションが
時間のデザインとして、わたしの幼少時の空間体験を象徴していた。
このような面材としては羽目板ではつなぎ合わせ部分で平面が破断するので
幼時のわが家のように収納利用意図があれば別だけれど、
一般的な機能性としては採用されなくなる理由はよくわかる。
板材を連続させるテーブル面でも「突きつけ」で使う方が多いだろうし、
できれば一枚物の面材になっていくのが常識的なのは当然。
わたし自身もムク木材の1枚物を食卓テーブルに選択している。
しかし、この微妙な面的不連続が生み出す「時間経過」感は捨てがたい。

わたしの場合、この光景の記憶が深く印象に残ってしまって
ごくふつうのラーメン店であるのに、強いこだわりを持たされてしまった。
北海道では積雪寒冷というきびしい条件下で、建築は
きわめて短い周期で建てられ続け、空間性の新規性の方が優越しながら
多くの建物が建てられ、そしてたくさん廃棄され続けてきた。
そのなかには、もう一度、再生させてみても面白い手法があった可能性もある。
戦後から新元号間近の今日まで、変化の多かった建築の時代を
通り過ぎてきた人間として、不意打ちを食らったような気がした。

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