「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」という読み方だとされている。
江戸時代に福岡県・志賀島でたまたま発見された「金印」であります。
これはまごうことなき「国宝」とされております。
福岡市博物館の一番最初の展示室に実物が展示され、そのために1室がある。
以下、博物館のHPより要旨抜粋。
〜印面に刻まれた文字は、“漢”の文字で始まります。異民族であっても
直轄領内の内臣には「てん王之印」のように王朝名は付きません。
漢で始まるのは倭が外臣として服属しているが、直轄領となっていなかったため。
次の“委奴”は『後漢書』の記述と一致することから
「倭奴」の略字と理解できますが、その解釈は分かれています。
外臣に下賜する印には王朝名の次に民族名、そして部族名がくるので、
「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」と考え、「漢委奴国王」を
「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」とするのが今日の代表的解釈。〜
ハンコなので、印肉があって朱印で押印されるのだと思ったのですが、
そうではなくて、荷物、たぶん漢帝室への貢物などを封印するために、
その閉じ口を粘土などで閉じたあとに、この金印で粘土に刻印したのだと
そういう解説がされていました。
持ち手部分にはヘビの造形が施されている。
実物は、一辺2.3センチ、重さ108グラムの金塊。
なので、こんなに小さいものなんだと、改めてマジマジと凝視させられる。
こういう造作を工芸品として製造する社会システムが大陸にはある。
そういった「政治」の存在、古代国家社会の明瞭な象徴として
列島社会にもたらされたことは、大きな驚きだったでしょう。
今から2000年程度は前の段階でのこと。
書物での確認と実物との両方が残っている列島社会史の嚆矢。
たぶん、当時の列島社会はいまのインドネシアとか、フィリピンと類似した
在地有力者が割拠しているような海洋民族社会。
彼の地とは違って、四季変化が明瞭で、比較的に平野部が多く、
人口が増える蓋然性が高かった社会だったのでしょう。
こういう漢帝室との交流が発生することで、古代社会としての「文明化」が
人々に相当に意識されるようになり、のちの大和朝廷に連なる人々を刺激した。
列島社会側での「政治」の出現はそんな過程だったのでは。
大陸や半島への古代史を通した強烈な志向性とは、
このような初期体験が刷り込まれた結果であるように思います。
で、下の写真は太宰府天満宮ですが、大陸との交流が
「遠のみかど」太宰府で主要に展開されてきたのでしょう。
具体的想像力を豊かに感受することができますね。
歴史好きとはいっても、北海道に在住している人間としては、
こういった北部九州のことはなかなか想像力を持ちにくい。
むしろ、アイヌを通しての北方交流の方がリアリティもあるのですが、
やはり列島社会史としては、率直に北部九州の方がはるかに、
モノと歴史事実の積層感がハンパないのだと、改めて思い知らされます。
今回訪問で、深く認識を持つことができました。
Posted on 8月 17th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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