この時期になると、例年わたしの毎朝の散歩路には、
オオウバユリが可憐な姿を見せてくれます。
上の写真は昨年の7月初旬のもので、満開状態のものです。
やや湿気の多い日影、森の中などで散見される。
深い緑の中に凜と立ち尽くしている姿は、まことに心に染みる美しさ。
アイヌの人たちにとっては、その根茎が貴重な澱粉質であり、
ソウルフードとしてかれらの命を繋いできた。
そんな姿を、散歩路でずっと探していたのですが、
ことしはサッパリ目にすることがない。
代わりに、下の写真のような植生をよくみかける。
まるで見たこともない植物なのですが、どうも上の部分が欠けているかのよう。
ことしは、オオウバユリはなにかの自然条件で咲けなかったのかと
残念な気持ちを持ち続けておりました。
毎年あるものがないというのは、心にとってまことに欠落感が強い。
って思っていて、ふとインターネットで検索してみたら、
ある欧米人で札幌在住の方のブログ記事に、
気になる記述がありました。
それによると、ことしはオオウバユリに対して
野生動物、それもある程度大型の動物が食害を加えているというのです。
想定ではどうもエゾシカではないかということ。
オオウバユリの花の結実する部分、上部を狙ったかのように食べている。
まるで根絶やしするかのように食べ尽くされてしまっているのですね。
別にエゾシカに恨みを持つものでもないのですが、
アイヌの人たちの時代には、こういう事態はあり得なかっただろうと思います。
エゾシカにはたくさんの天敵、とくにエゾオオカミが存在していて、
その種としての生存数はある程度、抑制され、
人里までかれらエゾシカが出没することはなかった。
人間の貴重な食料であるオオウバユリは、ある程度、栽培に似た自然共生だった。
そこまでエゾシカは踏み至ることはなかっただろうと思うのです。
それが現代では、人間の都合でエゾオオカミは絶滅したので、
エゾシカはいま、北海道中にその生存域を拡大している。
しばらく前までは北海道の脊梁を形成する日高山脈の東側だけが生存域だったのが、
いまや、北海道中に拡散してきている。
それもいまや、人里、札幌市中央区宮の森にも出現してきた。
人為的な種のコントロールによって、こういったふうに地球環境は変わっていく。
わたしとしては、こういう自然の摂理には淡々とするしかないのですが、
一抹の寂しさは憶えるところがあります。
人間というのは、こういう事態に対してどうすべきなのか、するべきではないのか、
ちょっと考えさせられています。
Posted on 6月 15th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 「都市の快適」研究, 日本社会・文化研究
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