先日から考え続けているテーマ、家族形態の変移ということです。
フランスの人類学者・エマニュエルトッドさんの文明論への反応。
人類の家族形態は8類型に納まり、人間はその生まれた「まゆ」としての
その家族形態によって意識がとらわれるという論です。
主に国家間の関係性や政治的な決定要因の基底とされるのですが、
それは置いて、わたしとしては以前から気になっていた
住宅の建てられようの決定因子としてこの考え方に大きな気付きを与えられる。
というのは、わたしたち日本人は戦前まで「直系家族」という分類形態が
一般的な家族形態だった。長子が家を継いでいくという
「家系意識」の強い社会に生きてきて、間取りでも仏壇とか神棚とかの
先祖崇拝型の「家」を、長期に持ち続けてきた社会だった。
その伝統が戦後社会に至ってほぼ一掃されて、
急激にアメリカ型の「核家族」形態を受容するようになって来た。
しかし、一方では「直系家族」の意識は払拭されず、
結果として核家族形態になって建てた住宅も、そこから直系家族相続が始まると
無意識に信じ込んできたのではないかと気付いたのです。
このことは日本人の「生き方」に関わることであって、
家を建てる、という行為の意味合いにも深く関与してくる。
「家を建てる」というコトバには、そこから「直系家族をはじめる」というイメージもある。
そういった「民族的幻想」は抜けがたくあるのではないか。
しかしアメリカ型の核家族化の結果、多くの「空き家」が発生してきている。
直系家族による存続を願望したか、あるいは無意識に想定したか、
それは別として、もっと長い存続を期待したけれど、
直系家族社会システムの方の存続危機の結果、家が余剰している。
住宅建築の側から言えば、長子相続型の資産「長期優良住宅」を進めるべきか、
あるいは短期(数十年)利用型の消費財としての想定であるべきなのか?
このあたり、国の施策でも人の意識に於いてもきわめて曖昧さがある。
少なくとも、戦後の社会作りの過程では、
都会で「家を建てる」夢を抱いてふるさとを離れた農家の次男3男たちが、
実際にジャパンドリームとして都市近郊に戸建てを建て続けて
そういった「直系家族」がそこから始まると信じていた部分もあった。
いまの「空き家」問題は、その住宅が多くは相続されなかったことを示している。
戦前までの長子継承型の家システムでは、住宅生産の側でも基本的に
長期優良型に建築意義を想定できるけれど、
核家族型の住宅利用はきわめて一過性的であって、
農家や漁家、商家のように生業との連関性が明確ではない「住むだけの家」に、
社会的な「長期存続性」はないのかもしれない。
やはり「核家族システム」とはアメリカのような「住み替え」文化の社会的受容が
ワンセットのものではないか、そうなるように思われます。その場合は、
流通性価値重視で「売りやすい家」であることが重視されるかも知れない。
ただまだ、日本では「住むだけの家」の質的価値感が根付いているとは言い難い。
こういった問題意識が、トッドさんの言説から刺激されてきています。
住宅を考える人間にはきわめて大きな問いかけではないかと。
Posted on 6月 14th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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