きのうはわたしの出身中学校の「同窓会」。
札幌市中心部立地の中学校だったので、人口の膨張と周辺拡散時代に遭遇して
新設されてから十数年で廃校になるという数奇な運命をたどった。
急増する校区内学歴人口を収容するのに、既存の木造の女学校校舎を利用してスタートし、
その後、モダンな新校舎が設立後7−8年で建てられた。
わたしは「12期」で、そのモダンな校舎で中学校生活を過ごした。
しかし、その後、対象の子ども人口が急激な流失があって、
わたしが卒業してから数年後、あえなく「統廃合」されてしまったのです。
人口についての科学的統計が行われていれば、
こんなことは起こらなかったに違いないのですが、
戦後のベビーブームという大波のなかでの混乱の一種でしょうか。
そういった急変した人口動態のままに、
札幌市で育ったいま60代を超えるような世代は、生きる場所がゆれ動いた。
わたしの父親などの話を聞いていると、
祖父の出自である広島県とか、あるいはそこから入植した北海道栗沢などの
「地縁社会」で基本的には生きていたことが知れます。
たぶん、その地縁社会は江戸から明治大正昭和初期まで一貫している。
個人としてよりも、地域共同体という「まゆ」にくるまれて人間は生きていた。
そういった実感が強く感じられていました。
父の話の中で登場する人物は、そういった地縁が色濃かった。
ただし、大正元年に生まれ昭和の戦前から戦後を生きた父は、
そういった地縁の人間関係と同時に「職」に繋がる縁で通常は生きていた。
たぶん、地縁がほとんどであっただろう祖父の時代とは様変わりしていた。
しかし、父の代では自己認識としては「地縁」意識が大きかったと思います。
で、わたしたち、昭和中期に生まれて生きてきた世代は、
戦後の高度経済成長のただなかで、この地縁が大きく流動し、
ほとんど解体されてしまった。
多くの人間はその後、「職縁」というまゆのなかで生きることが基本になった。
この職縁で生きることで、住む地域はその生理構造の中で大きく流動した。
多少なりとも地縁が存在するとすればいまは「学」での縁、
言ってみれば「学縁」というものが多少は代替するのかも知れない。
しかしこの縁は地縁のように根がらみで生きることと繋がるのとは様相がまったく違う。
なによりそれがなくてもまったく生きていける。
たしかに江戸までの社会には流動する民、無宿人とか渡りというような人もいたし、
明治以降、戦前、戦後のある時期までにもフーテンの寅さんのような
流動民も多く存在はしていたに相違ない。
しかし、そういった流動民とはまったく違うような環境でわたしたち年代は
あらかたの人生を歩んできている。
そういった人間生存環境の変化の中で、
定年ということから職縁から切り離されるような状況になってきて、
また、人々は生きる環境を意識していくようになっていくと思う。
職縁から切り離されて、擬制的地縁の象徴と言える「町内会」活動に
大きく関与するようなひとも現れている(笑)。
一方で職縁がずっと継続するようなひともいる。
高齢化時代、人間の絆、どのように変化していくのか、興味深い。
<写真は意図的に「ぼかし」を入れています。>
Posted on 6月 3rd, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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