わたしは北海道に住んでいるので
この写真のような「町家」は普段まったく見ることがなく、
本州地区でしかお目にかかれませんが、実はたいへん憧れを持っております。
北海道のような「外地」から見て
こういったエリアで人とふれあう機会があると、
日本的な集住のもたらした感受性の洗練を感じさせられるのです。
人間が住み暮らしていくのに必要な社会性のよき部分が
こういった「町家」暮らしの共有ルールが基盤としてあるように感じられる。
「向こう3軒両隣」というような身近なコミュニティ意識が
現実的な息づかいでいまも明瞭に生きている。
NHKドラマ「マッサン」で昨年中まで舞台になっていた
大阪の町家暮らしの様子のようなものが、見えてくる。
「人情」という言葉の実質は、どうもこのような生活様式が
日本人の多数派になっていたからこそ、生成してきた情念世界ではないのか。
そんな思いを、はるかな、北の地で生まれ育った人間として、
日本的情念世界の繭のように仰ぎ見ていたのだと、自分で思っています。
町家にはそういった都市生活文化があるのだと思っています。
もちろんそこには目に見えない、個人主義的な部分での
「生きづらさ」も存在しているだろうとは想像しますが、
しかしメリットと引き比べて、それは昇華可能なものだったのではないかと。
わたしが育った北海道の戸建て住宅感覚では、
「同じ厳しい寒さを共有している博愛感」として、心理的な垣根はないと表現する
「なんもさ」という言葉のような同胞感覚は持っていると思うのですが、
「人情」的な、ややウェットな心情には距離感があるのですね。
もうちょっと距離が近く、ストーブを囲む距離感での「あたたかさ」に近い。
そんな町家暮らしへの憧憬があります。
で、日本がこれから生き延びていくのに、スマートシュリンク、
賢くコンパクトに生きていく、という大テーマで暮らしようを考えていくと
この「町家」文化の再活用がいちばん現実性が高いと思っているのです。
すでに日本人の生活信条に確実な根拠を持っている
こうした生活文化を再生させ、しかし、個別の生活領域では
現代の最先端住宅建築技術である、高断熱化が図れないか?
そのような集住の現代化、快適化への試みのようなものが
起こってこないものかと、密かに待ち望んでおります。
たぶん、こうした町家集住地は地価と権利関係などでの
障害が多く存在するに違いないのですが、
どうにかしてそれらを克服して、あらたな現代的集住文化を生み出せないか、
そういった願望を抱いている次第です。
Posted on 2月 5th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
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