日経の「ケンプラッツ」に掲載された記事です。
”「生きる」と「働く」を重ね合わせる” という記事でした。
〜本当は建築が好きで勉強を始めたのに、気がついたら
たいして楽しめなくなっている。
仕事も同じで、自分にとって関心の強い対象であるほど、
既存に用意されている枠に従ってしまうと、
そういう矛盾が生じやすいんじゃないか〜
っていうような部分、好感を持って読んでいました。
どうしても、最近で言えば「リクナビ」的な範囲でしか、
仕事を選ぶという選択をしなくなっているのが多くの趨勢だろうけれど、
でももっと「生き方」に向き合えるような仕事への姿勢もあると思う。
もうちょっと自由な、カタログ選択的ではない「選択可能」な生き方だってある。
こういうふうな若い人がいるって
やっぱり捨てたものではないのかも知れない。
自分自身の内側からの声に耳を澄ますような生き方で
チャレンジしていくのも、けっして悪くないと思います。
誰の人生でもなく、自分の人生なんだから、自己責任でいいと思う。
わたしは20代の終わりで独立したのですが、
最初、とにかくいろんなことを「決める」ということに戸惑った記憶があります。
決めれば必ず結果が、もれなく付いてくるので
すべては誰にも言い訳できない「自己判断・責任」にならざるをえない。
本当にこれは過酷なまでで、ボールペン1本の購入にしても
よいものを選べばムダを押さえられるし、そうでないものを選べば
あとで必ず結果から、自分自身が問いただされる。
それまでは、親であったり、会社であったり、
自分の行動について、ある管理がそこに働いて、
自分で判断する以前に、あるルートがそこにあるという感じだった。
それは楽なようでいて、そのなかにいると、いろんなことに気付かなくなる。
本来人間は、自分ですべてを判断するのが自然な存在なのだ、と、
そういうことを確認させられたような体験だった。
自分で、なにごとかの責任者になるという
自己責任ということについて、否応なく問い続けられる生き方を選択してきた。
そんな思いをいまに至るも持っているのですが、
最近の若い人の中にも、そんな思いを持っているタイプの人がいることを知って、
なんか、うれしくなった。
Posted on 2月 6th, 2015 by 三木 奎吾
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