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茶道

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お茶って、まぁ、毎日飲んでいるお茶ではなく
「茶道」ということなんですが、
一般的に、権威的であったり格式的であるイメージがつきまとっていますね。
「敬して遠ざける」というスタンスがごくふつうの対応でしょうか。
それでも、茶道を習おうという文化があり、
そういう文化性を維持して、ジャンルの継続を計ってきたもの。
そんな印象くらいしか持っていないのですが、
先日、東京国立博物館で「長治郎」の茶碗を見てきてから、
どうも、その奥行きにはまりそうな予感を持っています。
長治郎さんっていうひとの作った茶碗が、
ほかの美術作品といっしょに展示されておりましたが、
思わず、目が点になり、しばし、じっくりと見物させられました。
見方といってもわたしはわからないのですが、
碗の底部の基礎部分から、碗の部分への立ち上がり角度とか、
碗の意匠性、形の無二性、素材感質感、手に取ってみたくなるような感覚など
実用と、芸術性の両面からいろいろな見え方ができて
不思議な世界がここにはあるなぁ、と実感させられた次第です。
楽茶碗、というジャンルに属する、というか創出した世界だそうです。
この長治郎さんって、ろくろなどを使わないで
手でこねて造形に仕上げるという創作方法であった、と言われています。
そういう職人の手仕事に大きくスポットを当てたのが
茶道の創始者グループだったのでしょう。
室町末期、戦国期、徳川初期の京都を中心とした文化世界の奥行きはすごいと思います。
たぶん、大航海時代のヨーロッパ世界との交流という
刺激が、海外への強い憧れをもたらし、
いろいろな世界が作り出す茶碗によって、それぞれの世界への興味が沸き立ち、
そうした場としての「茶」が、文化にまで高まったのでしょうね。
そうしたなかで、長治郎の質朴な茶碗が日本人の平衡感覚として
揺り戻しのように日本再発見的に珍重されたものなのでしょうか?
っていうようなことで、
行為としてはごく単純な茶道が、なぜにかくも文化として延命してきたのか、
ちょっと、興味が深まってきている次第なんです。
まぁ、でもいまは、コンビニの棚でどんな容器の、どんな味わいとコンセプトの・・・
っていうようなことが、現実的「茶道」なのかも知れませんね(笑)。
そうやってみていると、あの競争世界もなかなかに熾烈で
栄枯盛衰、常ならざる変化と大競争が日夜繰り広げられていますね。
しかし、そういうことが「京都」とかの
茶の文化性も再認識させる経緯になっている気もします。
したたかで、奥行きが深いものですね・・・。
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