きのうは、ずっと国立博物館で見た「京都」展の
洛中洛外図舟木本の図録に見入っておりました。
ハッキリ言って、洛中洛外図というのは、誰のものもそう変わらないのだろうと
ずっとそう思っていたのですが、ところが
トッパン印刷さんの超高精細なデジタルスライドビューを見てから、
認識が一変させられました。
いま展示中の「京都展」導入部で、上映されていますので、
機会のある方は、ぜひ見られるといいと思います。
洛中洛外図という日本絵画のなかの1ジャンルは、
都へのあこがれを抱き続けてきた日本人の心性に応えた表現手法。
戦国末期、上洛の夢を抱き続けていた上杉謙信に対して
ときの将軍家がこの洛中洛外図を贈答しようと考え、
それを信長が事業として受け継いで
謙信への懐柔策の一環として利用した、という故事がありますが、
こういった贈答が成立するのは、まことに日本らしい。
都の街の賑わい、文化現象、風俗といったナマナマしい息吹感を伝える手段。
文化伝達手段としては、今日の「映画」に近いのだと思います。
たぶん、絵巻物というジャンルの発展形態であったのでしょう。
その製作には、万金が投じられたことは想像に難くない。
それを請け負う絵師、企業化したような「狩野派」一派からはじまって、
幾多の才能が競っているような状況だったのだろうと思います。
聚楽第や大阪城の建築などには、秀吉の個人的趣味もあって、
いったいどのような絵画作品が残されていたのか、
察して余りあるものがあるほどですが、とにかく、
今日の映画制作と同様な活発な制作状況があったに違いないと思います。
そういうなかから、時代の文化の最先端的な部分が表現されていった。
こういう時代背景の中、岩佐又兵衛さんという絵師が現れる。
戦国末期、信長に反抗した荒木村重の妾腹の息子として生まれるという
数奇な運命を生きたひとのようであります。
父は信長によって追放され、一族はほぼ皆殺しにされ、
やや長じて、信長の息子によって召し上げられ、
それも主人が没落して浪人してから、京都で絵師をはじめたという。
青春期は京都の街で過ごして、芸術者としてのベースを構築する。
いま、わたしが見て感銘を受けている洛中洛外図舟木本は、
この時期のかれの仕事のようです。
その後かれは、40を過ぎてから越前福井に、その芸術的才能を買われて
いわば、文化のタネ元になるべく、移住する。
さらに転じて、江戸に行って、
いわゆる「浮世絵」の元祖になった、というように語られている。
ほかの洛中洛外図とは、人物の動作描写において格段の違いがある。
橋の上で花見帰りの一団が、踊りながら興じているさまなど、
今日のAKBと観衆のライブの様子以上の「空気感」を放っている。
<絵の写真を載せたいところですが、許諾著作権がどうであるのか微妙。
まぁ、ご自分でお探しください(笑)>
この時代が、どんな時代であるか、
まじまじと伝わってきて、身震いがするほどです。
しばらくは、個人的にスキャンした画像で、想像力を鍛錬したいと思います。
むむむむむ・・・。
<写真は、きのう同窓会で見かけた札幌西高後輩たちの映像作品であります(笑)>
Posted on 10月 27th, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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