写真は、先日見学した仙台でのある家の窓の様子。
この家は、住宅地としてのある設計コンセプトに沿っています。
それは、現代版の「長屋」的街並み創造ということ。
現代住宅が、強固な個人主義防衛拠点的な偏りに向かっていることに
一石を投じたい,というような考え方をされている建築家が
多くのハウスメーカーに対して、デザインコンセプトの遵守を迫った住宅地です。
で、太陽光発電の標準装備などの結果、
屋根傾斜角度や、棟の方向などもほぼ揃えられ、
さらに中心の「広場」空間に向かって、
大きな開口を向けていく、というような考え方を統一テーマにしています。
そういった動機については
ある程度、同意できると思ったのですが、
ではその手段は、と考えてきて、出来上がった建物の
開口の大きさに違和感を禁じ得ませんでした。
写真のような「個室」が主要用途である2階居室の窓を見て、
どうにも意味合いがわからなくなってしまった。
普通は腰壁があって、その上に開き窓があるというスタイルでしょうが、
ここでは、その腰の部分もフィックスの窓の仕様になっている。
「街並み」としてのコンセプトが、ある一定以上の「開口率」を迫ってくる結果、
こういった窓の開け方が必要になってくるのでしょう。
まず、北海道的な考え方からは出てこない発想であります。
熱環境的にはマイナスしかない。ま、それは大きな意図の中で
意味があれば問題ないけれど、問題は大きな「設計意図」の中身。
こういう光景を見ると
温暖地の建築家が、とにかく開口を大きくしたいと
なにか妄執に近い概念にとりつかれているのではないかと思わされます。
ひとびとの暮らしようが「社会」に対して「閉鎖的」になっている、
ということの解決策が、「窓を大きく開けることだ」というように
凝り固まって考えているのではないか。
こういった考え方は、入り口・玄関の設置指定についても通されていて
隣人の出入り状況が、お互いに「わかりあえる」ように
隣居の大きな主要居室開口から「見える」ように配置されている。
で、そうした設計意図の結果、
隣人同士に「一体感」が生まれ、コミュニティが機能していく、
というような設計論を展開しているのだそうであります。
さて、どうなんでしょうか?
そんな設計で、現代人のコミュニティ形成が可能だと
本当に考えているのでしょうか。
そのことがきわめて疑問だった以上に、不思議だったのは
こうした建築論が、どうやら、現代の建築界の一定の権威性からも
認定された考え方なのだ、ということ。
このような設計手法の「街並みづくり」の考え方の事例が
建築界の「賞」を受賞している、ということだそうであります。
ある必然性を持って生起している現代人の精神性について、
建築という「カタチ」の強制によって、
それを改変させられる、とまじめに考えているとしたら、
ちょっと驚きであり、まさに荒唐無稽ではないのか、と思わざるを得ません。
窓の大きさは、生活する人に開放感と同時に緊張感も強います。
内的なストレスを大きな窓で視覚的に解放できるのは、
その視線の先に花鳥風月的な視覚世界が広がっているからであり、
外部からの好奇の視線を感受したいからではないでしょう。
場合によってそれは、隣人監視に簡単になりうるのではないか。
温暖地建築家の一部のみなさんの窓の考え方に、違和感があります。
Posted on 10月 28th, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
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