わたしも、日本史の中で好きな人物を上げろといわれれば、
やはり信長さんは、かなり上位に来るというごく普通の一般人であります(笑)。
歌舞伎者であったとされる青年期までの
時代精神に鋭敏な感受性を持っていたところ、
あの徳川家康が、最後まで同盟関係を止めなかったこと、
たぶん、自ら神になるという強い思いを持っていただろうことなど、
日本人が生み出してきた個性の中でも、飛び抜けて面白い。
たぶん、日本の「政治史」では、
古代国家が「律令制」をこの列島社会に導入したことと並んで、
封建主義に基づく中央集権的な絶対権力を確立しようとした信長以降の2つが、
画期的だったことなのだろうと思います。
明治以降は、それを上回る大変革でしたが、
それは、もっと世界史的レベルでもあろうと思います。
律令体制確立については、日本の「貴族階級」による
列島支配の道具だったのですが
その基本になった、漢字の社会への本格的導入・文書主義の確立
そのことの徹底的推進が、列島社会に大きな変革をもたらせたと思います。
しかしそれは、やはり長期にわたって破綻し続けていき、
信長の出現を持って、本格的に権力機構としては清算された。
「天下布武」という単純明快な戦争主義への純化はむしろ清々しく受け止められた。
楽市楽座・兵農分離などの政策などを持って、
信長という人物は、わかりやすい大変革をどんな敵対者をも徹底的に叩いて
その政治信条を実現していったのでしょう。
で、かれは徹底した合理主義者のようにも見えるけれど、
飛躍を獲得した,対今川家との桶狭間戦争での勝利に当たっては
この熱田神宮で「出陣式」を開催して、
戦勝祈願後、社殿奥から鳥をたくさん放させて奇瑞を演出させ、
全軍の士気を大いに高めた、というような説話が伝わっている。
かぶき者としての信長、およびそのスタッフたちには
ありえると思わせるエピソードですね。
で、その一事のあとのエピソードを今回知りました。
写真のように立派な塀を熱田神宮に戦勝御礼として寄進したそうなのです。
瓦がたっぷりと挟み込まれていて、なかなか実用としてもデザインとしてもいい。
すべて消えてしまったという死に方も劇的で、
信長という人物の痕跡ってあんまりないように思うのですが、
ひとつの痕跡が得られて、すこしうれしい。
若いときにはかぶき者であったということや
外人宣教師が送った南蛮帽子を気に入ってかぶっていたという説話。
そして、秀吉の妻・ねねに対して送っていた手紙の
思いがけない優しさに満ちた気遣いようなど、
面白いヤツには違いなかったのだろうと推測します。
こんな歴史と人間の機縁に触れられて、
やっぱり本州地域の旅はすばらしいなぁ、と羨望する次第です。
Posted on 8月 29th, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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