Facebookには消極的に参加している。
どうにも積極的になれない。
違和感はずっと持っているのだけれど、
まぁ、新しいものへの拒否感への拒否感(?)もあって、
まぁそこそこに、という対応をしています。
情報発信としては、こうしてブログを更新し続けているので
それ以上は、なかなか対応しにくいことが一番なんですが・・・。
で、その「違和感」のなかに
「さぁ、お友達の誕生日です、お祝いしましょう」
というヤツがあります。
アメリカで生まれたサービス文化なので、
かれら創業者たちの生活文化をそのまま反映させているのでしょう。
かれらの社会では、友人関係の大きさというのは
そのまま、社会的な「個人」の影響力を反映するような
そういった側面が大きい、いわばパーティ文化社会だから、
そうした「機縁」として、誕生日というものには大きな意味があるのだろうと思います。
でも、日本ではどうなんでしょうか?
日本の文化伝統の中には、個人の誕生日を祝うという風習は長く存在しなかった。
基本的には陰暦社会であり、
「数え年」という風習の方が一般的で、
「年が改まる」正月に、全員等しく年を取ることが社会伝統だった。
それでは欧米社会に対しての迎合調和の意味で不都合なので
太陽暦を導入し、何度か法などで「上から」仕向けてきた結果、
ようやくにして、社会風習も「欧米化」が徐々に根付きはじめている、
というのが現代の状況なのではないかと思います。
わたしは、6人兄弟という環境で育った昭和27年生まれ男ですが、
子どもの頃、「誕生日」というものは、家族から祝われた経験はない。
6人も子どもがいて、親も2人いるわけだから、
そんなことを一々していたら大変だ、という事情もあったけれど、
そういった欧米的価値観の押しつけに対する、違和感の方が大きかった。
まぁ家族を持ってから、その家族の中での調和を考えて
子どもやカミさんの誕生日にはケーキを買ってきて
ローソクを吹き消す、くらいのことはやっているけれど、
それがものすごく生きることの上で大きな比重を占めているかと言えば、
そんなことは断じてない(笑)。
2年前ある友人が、ごく親しい高校同期生の友人の「誕生日」を祝おう、
それも「還暦」だし、みたいな呼びかけをした。
集まったのは当然ながら、みんな「還暦」で、その年に
自分の誕生日には、友人たちみんなからは「祝われなかった」数人が集まって、
違和感を抱えながら「おめでとう」と言い合っていて、
まぁ、不参加にしたいとも思わなかったけれど、
あんまりその趣旨に同意もしにくかったので、祝われた友人には申し訳なかったけれど、
忙しかったこともあって、早々に帰ってきたという経験があります。
こういうコンセプトは、日本的文化の中では、心が弾むようではない。
日本人は個人よりも集団的調和のほうを尊ぶのが一般的。
ときとして、勘違いして個人的感覚のほうを上位に置くひとがいるけれど、
誕生日なんて、友人同士で一々祝っていたら、収拾が付かない。
そこに「格差」が当然のように発生せざるを得ない。
そうした「友人間格差」を無分別にも強要する考えには共感できません。
そんなことから、
このFacebookの「あなたの友人の誕生日です」通知サービスには
日本人として、どうもムリ感が漂っていると感じてしまうのです。
Facebookでは、誕生日は「登録しても公開しない」設定も出来るので
いかがなものでしょうか?
Posted on 8月 12th, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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