本文へジャンプ

【具に候えば見る心地に候/信長の光秀「報告」評】


きのうの続篇・戦国末期の織田家中内部消息資料解析であります。
細川藤孝当主時の細川家収蔵文書からの明智光秀消息。
戦国期の消息を伝えてくれる資料にはいろいろあるでしょう。
比較的に客観的と思われる「多聞院英俊の日記」など、
今日で言えば一種のメディアとも言えるような情報記録媒体もあった。
現代のメディアでも多分にそのメディアの主観的意見も多いことを考えれば、
この時代の記録文もそれほど遜色なく信頼可能と思える。
後の世の人間にして見れば、現代のウォールストリートジャーナルと人民日報を
なんとか総合吟味して、真実の現代史を解明するのに似ているように思える。
しかしなんといっても、直接的消息を伝えてくれるのは当事者間の手紙のやり取り。
毎日戦争に明け暮れる時代、とくに織田家のように多方面作戦を展開すると
本拠地にいる信長と、各地域の担当武将との情報交換は必須だっただろう。

わたしが大きく惹かれたのが信長から光秀に宛てられた書簡のこの一節。
1574(天正2)年7月29日日付のものであります。
1582(天正10)年6月2日が本能寺の変なのでその8年前の主従関係。
この年当時すでに幕府・義昭将軍は信長に反乱を起こして鎮圧され
京都政局から放逐され幕府直臣100名以上が義昭の鞆下向に同行している。
一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。これらの旧幕臣は、
明智光秀の与力となり幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなっていた。
すでに浅井朝倉連合軍は撃破されていたが、武田信玄上洛の動きと併せ
対本願寺一揆との泥沼戦争など戦国騒乱の最佳境段階であったと言える。
信長からの細川藤孝への文書では繰り返し「光秀とよく相談せよ」と書かれていて、
光秀は義昭将軍の空隙を埋める役割を担い、京都政局の管掌と畿内での
織田軍の全権を把握する立ち位置にあったことがわかる。
政治的には光秀はまさに旧幕府と織田家の繋ぎの中核にあったと思える。
信長自身は伊勢長島での一揆との泥沼戦争中であり、光秀の方は
大阪の本願寺勢力との「根切り」戦争の渦中にあった。
この段階で信長の光秀への信認は極点まで高まっていると思える。
「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」という光秀の戦況報告への激賞ぶり。
まさに信長にとって「俺の目で見ている」と深く実感できる主従関係。
見方によっては、光秀は信長の家来というよりも旧幕府勢力を束ねて
信長本軍と「同盟関係」にあったと見て取ることも可能ではないか。
織田家中でもっとも早く近江坂本に居城構築を許された事実は象徴的。
きのうも触れたように天下という実質エリアが「畿内地域」というのが当時常識であり
畿内地域はほぼ全域が光秀の担当領域。朝廷対策から幕府対策まで
有識故実がメンドく腹の底の知れない権謀術策がうずまく京都=天下「政局」で
結果として織田家が幕府を滅ぼしてもなお政局の主導権を握り続けたのは
明智光秀の存在なしに成立しなかったのではないか。

こういう役割は織田家の他の重臣、たとえば柴田勝家とか丹羽長秀、
さらに木下藤吉郎などにはまったくムリな相談だったことは疑いない。
畿内情勢を占有的に織田家の立場でハンドリングできる能力者は、
織田家家中で、ただ光秀一人だったのが現実の姿だと思われる。
だから信長は、「具に(つぶさに)候えば見る心地に候」と心境を吐露した。
そう言われた光秀は深く自負するところ大だったに違いない。

この主従関係の時点から8年後、
本能寺の変は勃発する。信長は本能寺を襲った軍が明智光秀と告げられたとき
「是非に及ばず」と語ったという伝承がある。
光秀が襲ってきたのであれば、用意万端、自分の死は絶対免れないと悟ったと。
信長と光秀、この関係には強く興味を惹かれるものがある。・・・

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.