現代人は飛行機クルマ電車と「移動交通」について過去のどんな人々よりも
その恩恵を極限的に享受し、ほとんど空気のように利用できる。
しかしつい150年前まで日本は国内海運航路以外では、
人間の移動で公共的大量輸送を利用することは出来なかった。
いったん、この大量人員移動という経済の基盤が形成されてしまうと、
その「ありがたさ」を、深く認識することが出来ないと思う。
たまたま最近、作家・高橋克彦さんの小説で奈良時代の東北蝦夷社会と
奈良期の朝廷で特異的に「官人」として出世した蝦夷の人物を描いた作品を
読み進めている。「風の陣〜天命篇」(PHP文芸文庫)
まぁ、ストーリーの本筋自体は「想像力の豊かさ」にやや気後れするばかり(笑)
なんですが、いまの多賀城や周辺地域と、奈良の都、太宰府などとの
移動交通の様子が描かれたりして、面白く読み進めている。
日本の王朝政権も、中国律令国家にならって「道路」を作ったことは
歴史で教えられているけれど、その移動交通がさてどのようであったか、
実際的な視覚的実感はなかなか得られない。
そんなことを考えていて、以前さかんに収集していた幕末から明治初年の
北海道内での記録写真を思い起こして、ピックアップしたのがこれらの写真。
上は室蘭地域での「道路開削」工事状況の様子で
下は函館峠下から遙かに七飯、函館市街方向を見晴らしたビュー。
奈良時代の小説での奈良ー多賀城の距離は、現代の「道路網」〜
高速道路を利用しても840kmなので、まぁふつうに1,000kmはあったでしょう。
国家道路造成と同時に「駅逓制度」として移動手段のウマも整備された。
適当な移動距離毎に「駅逓」が整備され交代のウマ・飼い葉などが用意された。
こういう移動交通手段利用に公的な「通行証」がいわば「切符」になった。
多賀城は「遠の朝廷」であり、王朝政府の直轄支配統治機構。
小説では馴染みの少ない奈良期の政治動乱と王朝組織内での暗闘が
面白おかしく展開されているのですが、この移動交通も非常に面白い。
1,000kmの往復というのは、どう考えても陸路では1ヶ月近くかかり。
1日ウマを利用しても40-50kmがやっとだろうと思う。
<登場人物が両地域で八面六臂で活躍するなど非常に独創的(笑)>
大仏開眼のため奥州からの「産金」がありこの道を利用しただろうことは、
日本史的な画時代的出来事だったことが容易に想像できる。
その時代からは1100年くらい時代が下った北海道の明治ですが、
しかし、基本的には鉄道なども開設されず、もちろんクルマもない時代が
この間1100年は継続。技術革新は陸上交通手段では起こっていない。
一方で道路建設作業で画期的な「技術革新」はあったのだろうか、
不勉強でよくわからないけれど、基本的には人力作業中心だっただろうし、
陸路交通はウマか、ひたすら「歩き」かのどちらか。
たぶん歩いて移動するのは数十キロ程度の「生活範囲」に留まって、
貴人や公用旅客しか、ウマを利用しての移動交通はなかったのではないか。
しかし、その割に写真表現された道路幅はかなりの広さが確保されている。
想像を飛躍させると、奈良期から明治初年までこのような道路事情の中を、
わたしたちの先人は「移動交通」していた認識を持てる。
こういう環境の中、江戸期には各地「お宮参り」全国旅行ブームでもあった。
マジマジと、こういう実感に魅入っている次第であります。
Posted on 9月 7th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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