やられた(笑)。
注連縄というポイントに注目しての新型コロナ禍対応ブログ・過去取材探訪。
これまで気付いていなかった、ふとした発見が襲ってくる。
この写真の狛犬さんは、播州姫路市内の「英賀神社」境内写真で発見。
わたしの家系の所縁のある神社なのですが、
「え〜と、あそこの注連縄ってどうだったっけ・・・」と
写真を探していたら、狛犬らしく控えめに写真端に小さく納まっていた。
今回の「シリーズ」ではひたすら「注連縄」に注目して写真をチェックしていたので
たまたま本殿の注連縄の写っていた写真を引っ張り出したところ、
こっちの狛犬をつい発見してしまった次第(笑)。
なんとも愛らしい。この魅力にはまったく太刀打ちできない。
この狛犬さん、どっちかというと無愛想な表情をしているので、
「おい、少しは愛嬌でもふれや」という注連縄飾り担当からの強制圧力が働いた?
こういうレベルになると、これはもう圧倒的に「民のパワー」。
注連縄というのはだいたいが、その神社の「氏子」さんたちの奉仕活動だということが
段々に知れるようになって来た。
神社という地域伝統と在地性の高い民衆信仰は、民と神との対話の足跡ではないか。
「鎮守の森」は同時にムラ社会の「公共空間」であり、地域社会そのもの。
倫理観や法以前の社会道徳や慣習が表現されてきたもの。
政治変動とはまったくちがった日本的「民主主義」の揺りかごのように思える。
今日のメディア空間・WEB空間とも通ずるコミュニケーション空間。
そのような社会の持っているある側面が、たとえばこのような
狛犬の意匠に、断片的に表現されてしまうものではないだろうか。
こういった表現力を持つ「民の空間」には激しいシンパシーを感じる。
なにか、「きっと良い土地に違いないのではないか」と思わせられる。
関西漫才を支える部分とも通ずる社会的な「おおらかさ」「屈託の無さ」が伝わってくる。
結局は「民の暮らし方・文化」の力なのではないだろうか。
注連縄というツールは、案外日本人とその社会をわかりやすく解析する
そういった可能性を持っているように感じられてきた。
その作り手と媒体としての神社との関係性まで見つめ始めると、
これまでの数倍の「気付き」が得られていくように思えます。
Posted on 8月 9th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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