本文へジャンプ

【北海道の開拓苦闘が「国宝」になる日〜時計台】


こんなに長い期間、ずっと札幌に居続けているのはいつ以来か?
StayHome(town)なワケですが、人間にとって移動し体験を積層させることの方が
より普遍的なことなのではないかと思ったりもする。
建築とか、住宅とかに関連する仕事を選び取った人間としては
各地でさまざまな建築に触れ、その体験から普遍的な空間感受性を
涵養するというのが基礎的な部分ではないかと思っています。

そういうなかですが、逆に地元にある「国宝」候補として
いくつかの建築には独特の「体感」も持っている。
建築での「国宝」指定には歴史的時間積層が最低限必要とされているので
北海道では建築での国宝はまだ指定されたモノがない。
いわゆる「重要文化財」としての登録がされ、やがて確実に国宝に指定される
そのような状況の中にあるのですね。
その代表的建築としてこの時計台があり、旧北海道庁本庁舎(赤レンガ)がある。
この時計台は海外でもそのランドマーク性から日本・北海道を
アピールするインターナショナルな共有言語化されたいわば「記憶資産」。
民族体験として明治初期の時代を表現する木造建築として
この時計台は重要な存在であることは間違いがない。
しかし国宝一般から見れば、そこに掛けられた費用などから見れば、
格段にローコストな建築であろうことも特徴的とも言える。
写真は2階ホール空間で、百坪を超える大空間ですが、
建築の初期目的が札幌農学校生徒たちの体育施設だったことから
柱のない大空間が求められ、ツーバイフォー工法の原型とされる
「バルーンフレーム」工法が採用されている。
この大空間を成立させるために、1階部分は比較的に細かく仕切られて
構造強度を高めるように設計されている。
1878年創建時、これだけの大空間をローコストに作るために簡素な
建て方としてこの工法が採用されたものでしょう。
開拓初期、札幌での建築ラッシュを担っていた安達喜幸をはじめとする
北海道開拓使工業局による設計・監督の下建造された。
バルーンフレームというコトバの通り、面構造として壁・屋根・床が造作され
それを立ち上げるような構造のありようが写真からもうかがうことが出来る。
まことに簡素で正直な建てられ方だと伝わってきます。
時計塔はあとから追加工事されたのですが、
正確に時を刻んで行くには、床面などの構造的な正確さが欠かせないとされますが、
そういう点では機能性はしっかりと満たされてきたとされ、
その基盤の仕事をした明治の作り手たちの手の確かさが伝わってきます。

よく周辺が高層ビルに囲まれて「がっかりスポット」とか言われますが(泣)
開拓の最初期の空気感、日本が西洋文明に真正面から立ち向かった
そういう時代のひとびとの手業が、はるかに伝わってくると思います。
歴史時間の乏しい北海道だけれど、この光芒を放つ明治の空気は
しっかりと未来に継承していきたいものと思います。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.