人間は無意識のうちに、見えていることだけにとらわれやすい。
しかし、見えていることも常に変転する。
地球規模の気候変動要因で海陸が変化するというのは、
比較的にわかりやすい出来事と言えますが、
しかしやはり実感として常に把握するのはむずかしい。
一番上の図は釧路湿原展望台近くの「高台」にある北斗遺跡の
歴史年代での海岸線の変遷の説明。
現代の写真では広大な釧路湿原が見晴らせる高台ですが、
この遺跡は重複遺跡で、旧石器から縄文・続縄文・擦文時代までの
合わせて300以上の竪穴痕跡があり長い歴史が刻まれている。
現在は釧路湿原を望む標高20mですが、
遺跡に人間が住んでいた当時はここはごく海岸に近かった。
直近の擦文時代っていうのはいまから1,000年程度の過去。
水利の交通の便が良く海産品の確保もできて
周辺陸上樹木からの採集など人間居住・ムラ形成には好適地だった。
北海道の遺跡には、いまの海岸線からは離れた
こういったやや高台にあるものを多くみることができます。
丸木舟のカヌーや少し大型の海での漁撈のための舟など
多様な乗り物を操りながら日々の暮らしを営んでいたに違いない。
300以上もの竪穴住居跡が確認されているということなので、
おたがいの生存を支え合う数百人規模のムラ社会がそこにあって、
それぞれの役割分担で分業的な社会構成があったのだろうと。
そしてこうしたムラ社会が各地に点在して、相互に
行き来する中で「交易」が営まれてもいたのでしょう。
北海道島の人々は隣接するニッポン社会や北東アジアと
活発な「交易」を営んでいたことが確認されています。
北海道の「鷲の羽根」やアザラシの皮革が日本の首都・京都社会と
交易され、最上位の「威信財」となっていた記録が残る。
こういった海岸線の光景がまったく変化するということは
わたしは北海道の遺跡探訪でよく確認していたのですが、
やはり日本各地でも同様であった知見が積層してきている。
3番目の図は大阪文化財協会が発表されている縄文期の大阪の「地形」。
いまの陸海感覚とはまったく違う光景がそこに広がっていて
さらに日本史の中心地域なので、展開した日本の歴史事実にも
こういった「地形変動」が大きなファクターであったことが明らか。
浪速という地名は内海、その後、湖になった河内地域から
潮の干満に合わせて「浪が速くなる」ことを表現した地名だという。
北海道でもそうだけれど、交通手段は舟が主体なので
こうした地形の動態的な違いをアタマに入れなければ、
能動的な歴史理解には至らないということも至極当然ですね。
わたしの生きてきた数十年でも「交通の変化」はすごいのですが、
歴史年代でも同様に水上交通・人の生き方の変化は必須前提条件。
知らずに垢のようにたまる常識のウソ・ワナをキモに銘じております。
Posted on 9月 18th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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