歴史的なことを考えるときには、当時の人口を考えながら
なるべくリアリティを持って社会の様子を想像するようにしています。
ライフワークの建築テーマでも、その考えを踏まえて想像している。
建築の技術発展と建築需要把握についての決定的な「補助線」。
そういうことでいつも参考にさせていただいているのが
上智大学の鬼頭宏先生の研究「日本列島の地域別人口歴史」です。
平安末期1150年段階の総人口が724万人に対して
425年前の奈良時代725年には451万人なので、この間は1.6倍という人口増加。
武士の支配する時代の開始を経た1600年の関ヶ原の頃が1389万人。
450年間に人口は1.9倍とほぼ倍増している。
さらに、1600年から246年後の幕末1846年には約3300万人。
2.37倍と人口は急増しているのです。
歴史とともに人口増加趨勢が盛り上がっていったことがみえる。
国家としての基本骨格を天皇制と貴族政治・律令体制としていた時代から
地方の生産力の拡大を分権的に進めたのが鎌倉からの武家政権であり、
それによって経済規模が拡大してきたということがわかる。
とくに江戸期の人口増加は、日本全国の三百諸侯の分権での生産力拡大が
目覚ましい効果を持っていた、ということが明確にわかる。
国内戦争で富を奪い合うよりも、平和を達成する方が生産を上げる。
政治が正義かどうかはどうでもよくて、結局は経済発展こそが最大テーマだと。
巨視的には、そういうことが自然な理解なのでしょう。
図は鎌倉期の九州での建築工事の絵図ですが、
寺院建築の現場に運び込まれた木材と、現場での加工の様子。
歴史段階で言えばそれまでの京都に政治権力が集中した体制から
関東という急成長地域の独立的発展が鎌倉幕府創設で追認された。
寺社というのは、古代から中世にかけては巨大な利権構造であり、
経済主体として機能していた現実がある。
建築はそういった宗教権力が生み出す需要に即して発展したのでしょう。
平家の奈良の焼き討ちからの復興が頼朝の資金援助もあって
大きく進展した希代の建築プロデューサー・重源さんの活躍は
現代でいえば建設大臣と独占ゼネコンの両方を体現したように思うのですが、
その契機に、運慶などのリアリズム木像も多作された。
ああいったリアリズムが可能になり生み出された「木工技術」発展は
同時に建築技術に援用され、相互に影響し合いながら進化した。
戦争からの復興が、全国で活発化したことで、
建築も大きく発展した歴史エポックでもあったように思われます。
Posted on 9月 2nd, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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