上の上下の写真の家々はある街でお隣同士で建っていた。
日本の場合は、既存住宅地と言ってもその家が建てられる年代は
大きく異なっていたりする。
リフォームや建て替えに当たって周辺に配慮するかしないかは
個人や建築サイドの主観的決定にほぼ委任されている。
なのでいわゆる街区としての統一感というものは存在しにくい。
江戸末期に日本に来た西洋人たちは、江戸の統一的な街並みを見て
さらにそこにゴミ一つ落ちていない様子を見て
貧しさはあるけれど、人々は幸福そうだ、と印象を語っていたとされる。
それから百数十年後、写真のような街区が日本には形成されている。
戸建て注文住宅、という個人主義に委任された公共・街並みが
日本のふつうの風景になってきている。
こういう「不統一」を社会的に制御するシステムは存在しない。
せいぜいが、景観条例というようなものだろうけれど、
京都のような歴史的街並みを持つ,ごく一部的な部分に限られる。
そしてさらに、このような不統一についての反応・感覚でも
常識的感覚を、日本人は共有できているのかどうか、
そのことにも大きく疑問符があると思う。
一方で古い商業街区とは異質な新興のAEON中心のクルマ社会ゾーンでは
それこそ巨大商業資本による街並み看板ランドマーク独占が
全国一律に近い「統一感」でもって構成されている現実もある。
今やそちらの方に街並み感覚が育ってきているかも知れない。
そういう街並みの現状のなかで、戸建て住宅における
このような「不統一」に異議申し立てするのもいかがかと思うのだ。
見た目には下の和風住宅は端正な街並みへの貢献を感じる。
しかし、きのうもある住宅企業の方と話していて
いまや、こういった「数寄屋」の建て替えが全国的に顕著で
その過程で庭石など、手の掛かる庭園装置が大量の「廃棄物」として
顕在化してきているのだと聞かされた。
また、新築に当たって庭木を施主さんにプレゼントしても
「木には虫がついて、面倒だ」と敬遠される、とも。
そういった社会全体の傾向から、この写真のような街区は
全国的にもどんどんと拡大していっているだろうと感じます。
われわれの時代には、このような街並み景観が進んだ現実があるけれど、
さて、はるかな後世になって、このわれわれの作りつつある街並みは
どのように「評価」されるのか。
むしろ世界に稀有な「戸建て注文住宅」個人主義全盛の社会遺構として
世界遺産に登録される可能性もあるかもと、妄想が沸き起こっています。
Posted on 4月 27th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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