先日の東京出張で日本学術会議に向かう途中で
FUJIFILMがやっている「写真歴史博物館」に立ち寄ってみた。
六本木東京ミッドタウンの一角。写真の企業としてメセナ的にやっているようです。
わたしどもも写真表現の一分野としての住宅雑誌であり、
写真の持つ表現力に継続的な興味を持ち続けている。
また個人的に歴史記録はどこらあたりから残されているか、たいへん気になる。
その記録を通してコトバだけで理解していたこととの落差が氷解する。
幕末から明治に掛けて日本各地を撮影した記録は「横浜写真」と通称された。
幕末に来日した英国人、フェリーチェ・ベアトさんは、
日本各地の風景や人物を撮影して、1864年に横浜で営業写真館を開業。
当時来日した外国人向けに解説文付き写真アルバムを販売した。
その写真アルバムの名前が「横浜写真」。
たいへん人気を博したようで、その後、一般名詞になったそうです。
当時は土産用として、文化的価値評価はなかったそうです。
いま見てみれば、当時の「風俗」が明瞭に伝わってきて目を奪われる。
なにやら、当時日本人にはありふれた存在であった浮世絵が
海外でその文化性を高く評価されたことと対になっているようで、
この「横浜写真」という存在はきわめて面白い。
博物館展示内容自体は「幕末〜明治の富士山写真」が中心で、
壁面1面で展示が終わるささやかさだったのですが、
そこでこの「横浜写真」の実物展示があり、そっちに大いに刺激された次第。
ぜひ入手したいとスタッフの方に聞いたのです。
FUJIFILMのベテラン社員とおぼしき方が質問に答えてくれて、
この横浜写真自体は販売できないけれど、図録的印刷物を
わざわざ探してきてくれて、なんと無料でいただけた次第です。
フェリーチェ・ベアトさんは、当時の写真に自然顔料で彩色していたそうで、
一種独特の雰囲気と味わいのある画面が構成されています。
写真としては農家の作業風景ものと、「大原女」を上げてみました。
とくに1枚目の大原女。歴史家・網野善彦さんの本で知識だけだったのが、
こういう具体的記録として目にして驚きました。
洛北・若狭街道沿道の大原の里の農婦たちは、副業として
京都の街を漬け物や薪などを行商して歩いていたとされるのです。
それを「大原女」と称していて、京都のまちの点景になっていた。
いかにも朝鮮系文化風習、アタマの上で荷物を運ぶさま・姿に目が釘付けになる。
ニッポンで庶民がどの生きていたか、真実の一端が見えてきますね。
Posted on 6月 27th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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