住宅って、工業製品のように「持っていく」ということは
ほぼできない。
まぁ、モンゴルの人たちのパオなどのテント建築は移転可能でしょうが、
それ以外の世界中では、かれらの「牧畜」を中心とした生活様式ではなく
農耕を基本とした生活様式なので、定住的に「そこに住む」ことが常識。
そうすると、住宅というのは定置的存在なので、
それを多くの人に「伝える」には、写真表現が非常に重要。
っていうことで、もう何十年も写真表現と向き合い続けています。
写真は言語ではなく、絵なので、表現としては直感的。
テキスト表現はそれはそれで奥行きが深いのですが、
なんといってもコトバなので、基本的なスキルは多くの人が共有している。
ところが、絵的表現力、受容力というのは、
なかなか共通言語化しにくいものがある。
絵の表現力にしても、棟方志功さんのような表現もあれば、
モネの睡蓮のような表現も、さまざまに存在する。
自分で表現はできなくても、感受力には優れた人もいる。
地球生命体の進化の過程で全ゲノム重複という数奇な経緯を経て
立体的で3次元的な外界認識視力が普遍化して以来、
「見る」という営為からの全情報経験の総量がそこに積層しているように思う。
それこそ「なにをどう見るか」は、日々経験知も重なってきて、
リアルタイムで進化し続けている領域なのだと思います。
写真は、先般来ときどきお伝えしている写真画像修正ソフトでの
「使用前・使用後」なのですが、
iPhoneカメラからの画像を人間の目に近づけるようなAI的技術は、
それこそわたしでも使えるくらいに簡単化してきている。
ただし、そうではあっても、そのソフトで「どう修正するか」ということは、
結局ユーザーに委ねられざるを得ない。
左の写真を右の写真のように修正したのは、
わたし的な住宅写真への「経験知」がそこに関与している。
この「修正の仕方」についての情報経験知の共有化も必要なのでしょうね。
最近、コミュニケーションでの「ギャップ」について
さまざまに気付くことが増えてきているのですが、
こういったレベルのことについても、共有することの難しさを感じています。
Posted on 4月 20th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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