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【大空間土間の意味 江戸期「大胆煎」農家】

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ここのところ、古民家の年代素性の順番に記述しております。
こうやって年代的に古民家をあきらかにすると、
その時代背景、歴史事実とも照合ができて、社会のありように
ある直感力が働いてくる部分があると思います。
中央権力中心地では、宗教建築や国家施設が建築された時代、
建築の先端としては、巨大な木造デザイン建築が建てられ
宮廷や貴族の建築では「床の高い」寝殿造り木造が建てられていたけれど、
平安末期くらいまでは、一般の民は依然として竪穴に住んでいた。
身分社会を表す言葉として「地下人〜じげにん}というコトバがあるけれど、
まさにそのような表現に実質があったのでしょう。
こういった住居形式に一般人はほんの1,000年前くらいまでは住んでいた。
世代で言えば、高々50世代くらいということになる。
その段階からきのう見たような、竪穴と土壁の中間形を経て
近世・江戸期にはこの建物のような農家古民家とその社会が成立した。

以下、この農家古民家についてのWEBでの情報抜粋〜
岩手県内における建築年代の明らかな古民家の中では最も古い。
現在「みちのく民俗村」内に移築復元。旧菅野家住宅は、
伊達藩域内の典型的な豪農農家です。南部藩と境を接する
口内町長洞に建てられ村役人の大胆煎(おおきもいり)を努めた家。
桁行(けたゆき)10間、梁間(はりま)6間、平面積70坪余の寄棟造り直屋。
建物の半分近くが土間(どま)で占められています。国重要文化財。
建築の際の記録から、母屋(おもや)は1728(享保13)年建築。〜
歴史事実を参照すると
この時期は徳川吉宗の将軍就任・享保の改革時期であり、
全国的に租税強化に対しての「一揆」の発生がたいへんに多かった。
たとえばわが家系調査では、その当時、大庄屋を拝命していたが、
焼討ちに遭った事実もある。農村自治の首長は板挟みで薄氷を踏む日々・・・。
この古民家では室内の巨大な土間空間の柱・梁組みの偉容が目につく。
とくに柱は自然木そのままの曲がりぶりを見せていて、
よくぞ架構を持たせてきたと感動させられます。
1本1本の構造材の曲がり特性をきっちりと把握した木組みで
移築はあったとはいえ、創建から300年の時間を耐えてきた。
江戸期もこの時期になると、構造材として利用しやすい
木材資源が入手しづらくなったのか? 曲がり材を上手に組み合わせて
その柱間をうまく木小舞、竹小舞で下地処理して土壁で固めた、
本格的な土壁構造による木造が建てられるようになった。
いや逆に、この曲がり材は高い構造強度を期待していたのかも知れない。
岩手内陸部として気候的に積雪荷重への強度を考えた素材選択だったかも。
堅牢な土壁は竪穴などの前時代住宅と比べ「気密性」の高さが感じられる。
前日までの歴史的住宅群と比較して、住宅性能的技術進化が明瞭。

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薬医門(やくいもん)は1720(享保5)年の建築であることが判明。
この門は医者の門として使われたことから名がついている。
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるように
と言われているけれど、実態としての機能性よりも江戸期の格付様式でしょう。
建築に対しても、たとえば間口の大きさで税金を定めたり、
江戸などの人口集中地域では耐火構造として瓦屋根が推奨されたり、
このような様式で身分制を表徴させたりと、
住宅建築に対して法的権力支配が、垣間見られてくる。
今日に繋がる、さまざまな制度規制が具現化していると言えるのかも。
ただ「いつでも誰でも入れる」という機能性表現としては、
「肝煎」という農村社会のセンター機能を果たしていたことと合わせ考えると
広大な土間空間は、地域の「自治的」な集会所でもあったのかも。
ここで重要なムラ社会の取り決めについて意志決定する
「ムラ全員集会」みたいなものも可能だと思われる。
ムラ経営上の重要事項、とくに年貢問題対応が「いつも」話し合われ、
場合によっては「一揆」の話し合いなどにも利用された可能性もある。
こういう空間にいったいどんな想像力を抱くか、まことに刺激的。
心を凝らせば、300年前江戸期の人々の息づかいも聞こえる気がします。
社会発展の結果、住宅の規模と機能も大きく変化発展したといえますね。

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