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【ニッポンの「和風」建具文化】

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きのうまで4軒の古民家を特集してみました。
古民家というか、古代の「竪穴」から徐々に一般化されていった
「土壁」の家への変遷という流れを見てみた。
よく日本の木造建築について、やれ書院造りとか寝殿造りとかを
様式的変遷として「住宅の流れ」的に学ぶのだけれど、
ああいう立場は単に「上流文化」の流れをたどっているに過ぎないと思う、
それとはまったく別に、基層としての「民俗」的住環境は、
どんな古民家を訪ねても、きわめて土俗的だと感じていた。
日本列島での「住文化」としては、基本的に「竪穴から土壁へ」という
ものなのではないか、と感じているのです。
圧倒的多数人口はそちらの方の系譜にあって、
それに対して、いわば「差別化」の表象存在として、
寝殿造りだとか、書院造りというあったのだと思われる。
もちろん木造での公共的大空間として、
社寺仏閣や権力建築もあったけれど、民としてはこっちの流れだろうと。
このような「上流建築」は、確かにその時代の支配者の「空気感」は
大いに反映していただろうし、そこで生まれたライフスタイル・文化が
いわばこの列島社会での感受性の先端・フロントエンドではあった。
人々は限りなく社会的成功を求め続けるものであるから、
そういったいわば「憧れ」の存在として代表しているとの見方もあり得る。
が、少なくとも階級分化の表層表現であることは明示すべきなのでは。

写真はきのう紹介した、江戸期の「肝煎り」層の民家の内部建具。
肝煎りというのは、地域の経済や「自治」を仕切っていた
いわば地域自治体の庁舎も兼用していた建物の主の居宅内部。
公の機能としての大きな土間ももっているし、
またこのような文化の先端的建具芸術品なども収蔵していた。
いわば「地域首長の公邸」的な存在として尊崇は集めていたに違いない。
しかし一方で、その首長の民への姿勢がより権力的・搾取的になれば、
民の側から容赦なく「打ち壊し」の対象になった。
この古民家は立ち回りがうまかったか、
あるいは単に運が良かったことで生き残ったけれど、
江戸期を通して一揆は日常的なものとして存在してもいた。
こういった歴史の流れの上に、こういう「住文化」はあっただろう。

この建具には芸術としての「書」が表されている。
背景としての土壁建築に対してのコントラスト要素、
そういったことが意図されていただろうことは疑いがないと思われる。
ふと、この空間の中で静謐で美をたたえた様子を見ると
その調和力のすばらしさにうっとりとさせられる。
この光景の中で、ただただ芸術作品の方にだけ視線を向かわせるのは
やはり正鵠を穿っていると言えないのではないか。
あくまでも背景としての空間のありよう、その成り立ち、
その流れの変化の方に透徹した視線は向けられるべきだと感じた次第。
また、こういった背景成立の基盤が薄らいできて、
たとえば北海道では民家から和風建具仕事が消え去ろうとしている。
こういった建具文化自体、今後はどのようになっていくのかと危惧される。

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