さて本日も、古民家特集であります。
今回の特集では、時系列的に東北古民家の流れを跡づけてみています。
この建物は、北上市鬼柳町で発掘された約650年前の建物の復元。
今現在は、北上の「民俗村」に展示されている。
地面を掘りくぼませている点では竪穴住居の流れを汲むものですが、
いまのところ、住居かどうか確定的な判断はついていないとされる。
特徴は、風除室のような突き出し部分があること、
平面がそれまでの竪穴住居と比較して、長方形になっていること、
壁際に立ち並んでいる柱の数が多いことなどがあります。
この時期の東北ではこうしたタイプの建物がたくさん発見されている。
古代的な「竪穴住居」から、江戸時代の「農家民家」に移行する
住宅の歴史でも中間的な位置付けになる例として
きわめて珍しい復元事例だと言うことです。
土台のような材が壁の最下端に置かれている。
壁には木か竹で下地が組み上げられて、そこに粗塗りで
土壁が施工されている。
木をたくさん使うということは、急激に資源の枯渇を招いたに違いなく、
それを避けるために、こうした壁造作が一般化した。
室町期といえば、やがて京都町衆たちが土壁と間伐材利用での
戦災復興からの「応急仮設住宅」としての土壁住宅を量産した。
土壁造作は、職人の手間はたくさんかかったに違いないけれど、
戦乱によって流民化した「労働力」は豊富にあったとされ、
工法の全国的流通は、戦国大名たちの地域生産力拡大努力と相まって
相当の速度で全国に波及していったに違いない。
鉄砲の伝来とそこからの全国波及のスピードの速さを思えば、
こうした想像の現実性は高いだろうと思われます。
ちょうどこの時期は、政治的には室町幕府の初期。
前時代の鎌倉幕府・北条執権家が東北では権力を握っていて
とくに北方交易利権については津軽・安東家支配を通して
強い基盤を持っていたと思われる。
混乱期に、公家の北畠家が東北の武装勢力を引き連れて
京都へも侵攻するなど、東北からすれば都文化との接触が
本格化した時代でもあったという側面はあったと思う。
そういった政治闘争の全国規模化が、あるいは住宅における「技術」も
伝播していくきっかけを提供したのではないか。
塗り壁下地のすだれ模様には、そんな想念が沸き上がっていました。
わたし自身も、過去に見たことのない独特な古民家でした。
Posted on 9月 30th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 古民家シリーズ
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