さて先日は青森県六戸の古民家を観ましたが、
きょうは、岩手県北上の遺跡からの復元古民家です。紹介文は以下。
〜平安時代の「竪穴住居」
地面を掘りくぼめて床を作り、柱を建て屋根を掛ける竪穴住居は、
東日本では平安時代終わり頃(1180年ころ)まで造られていた。
軒先が地面に着くものと、地面からやや離れ壁が立ち上がるものがあった。
いずれも壁際側に煮炊きするための「かまど」があり、
そこから穴を通して外に煙を排出する「煙道」があった。
この建物は平安中期(900年〜頃)の北上市相去遺跡群の
発掘例を復元したもの。正面に切り妻式。〜という事例です。
ちなみにこの900年代の歴史事実の主なものは以下のようになる。
・905年 北東北で環濠集落、防御性集落、高地性集落出現
<前世紀での朝廷の北征とその頓挫を反映か?>
蝦夷側・津軽五所川原にて須恵器生産。南部鉄器などに連なる製鉄も
蝦夷側で行なわれていたと推定されている。
・おおむねこの時期、有史以来の災害・十和田湖火山の大噴火
・935年 平将門の乱。
・939年 秋田城で蝦夷側反乱。<交易利権争闘か?>
・947年 朝鮮・白頭山世界史上最大級の爆発的噴火
・999年 富士山噴火
というような状況であり、平安初期の桓武帝による蝦夷征伐、
境界地域での緊張政策が弛緩しつつあった時代。
しかしそれは800年代後期からの気候「寒冷化」と相次ぐ自然災害の
結果だったとも言えるのではないかと思われる。
この世紀からいわゆる「武士」が成立し始める。
徐々に権力の下降、在地暴力が力をつけた時代といえるのでしょう。
壁の作り方は面白くて、屋根と同じ萱束で基本造作して、
その上で外壁側に土塗り壁を重ねていました。
断熱を強化する意味合いが強い。伝統的な遺跡住居などで、
屋根断熱で土壁を萱束でサンドイッチする工法もあるので、
そういった類推が働いてきます。本格的土壁への過渡的な工法なのか。
たぶん、土壁下地としては萱束は保持力でムリがあったかも知れません。
そのせいか萱と土のツートン外壁で、これはこれでいいデザイン。
住居設備として興味深いのは、囲炉裏がなくてかまどだけであること。
遺跡調査で、囲炉裏跡は燃焼痕跡が明瞭であることから
それが発見されていないと言うことは、
この煮炊きのためのかまどが暖房も兼用したものと考えられる。
復元図面を見ると、投入できるエネルギー(薪)量に応じてコンパクト。
しかし一方でこの「かまど」には、きちんと「煙道」が造られている。
室内側で薪をかまどに投入して燃焼させ、発生する煙を
煙道を通して外に排出する工夫を凝らしている。
この煙道についての説明は細かくはされていませんでしたが、
北海道釧路市郊外のほぼ同時代の遺跡住居では、
石と粘土によって加工造作されていた。
こうした技術は汎人類的な自然の知恵としてあったようなので、
ごく一般的に造られていたのでしょうね。
かまど自体も、丁寧に粘土で仕上げられて、薪の燃焼熱が
この粘土皮質にじんわりと「蓄熱」されて
室内に対して輻射的暖房としても機能したと思われる。
ただ、この建物は土器を生産していた遺跡中の建物なので、
囲炉裏がないのは、常時生活するための住宅としてではなく、
土器生産のための「工場」であった可能性もあります。
この時代のこの地方での生産土器は「須恵器」であり、
ヤマト社会の特徴的生産物で国家管理材でもあったが、それが
だんだんと在地で作られていくようになった時代でもあった。
前段で触れた社会背景、歴史事実を重ねると想像が膨らむ。
モノの証言と歴史事実がシンクロするダイナミズム・・・。
生活を表現する小建築からは、さまざまな情報が立ち上ってきますね。
<おまけ・きのう日ハム、無事優勝できました。
無関係かつ地域的話題にムリにお付き合いいただき、感謝します(笑)>
Posted on 9月 29th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 古民家シリーズ
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