東日本大震災に伴う津浪被害で、三陸沿岸地域では
広範囲で地域集落の全的な消失という
歴史的にもかつてない被害を受けた。
そこからどのように、あらたな生活環境を再構築していくのか、
およそ、民族のDNAレベルでも記憶していないような現実に
現代社会システムとして、立ち向かって来たと言える。
その防災集団移転のプロセスでは、各地域の被害にあった人たちと、
それをサポートする建築家グループの人たちとの共同作業で
いまようやく現実が、作られてきている。
取材してきたのは、宮城県石巻市北上地区の「にっこり団地」
上の写真のようなあらたな地域集落の「街割り」が確定している。
全体計画は2枚目の写真のような計画になっている。
全的な被災を受けた右側海岸線から、左上の方向に高台が広がっていて
そこに既存の中学校や野球場・テニスコートなどがあった。
その周辺を再整備して、小学校を新築し、復興公営住宅群を整備する。
上の写真は、その戸建て型の復興公営住宅の街割り。
3番目の写真は、地域の交流のための集会施設・情報交流館。
詳細については、また違う機会にまとめたいと思っていますが、
被災から5年の歳月を掛けての関係者の努力の数々に
ふかくリスペクトさせていただいた、という実感。
全的に消失した街を、そのコミュニティ関係性を再構築しながら
建築的な「解」を作って行くという作業は、
まことに気の遠くなるような歩みであったことが、伝わってくる。
この計画作りに関わったJIA東北支部の活動を多としたいと思います。
このプロセスを記録した冊子には、まとめとして、
以下のような記述があった。
まことに同意するところなので、要旨抜粋を転記したいと思います。
「公共」という概念が、地域社会・行政双方にとって大きな障壁になっている。
行政は「公平生」という呪縛に囚われ自由に考え行動する機会を失っているし、
地域社会は、柔軟な地域運営が出来ずにいる。
小さな集落の中の末端の道路整備を、石巻中心部の幹線道路と
同じ市道認定基準ですることに意味があるのだろうか?
江戸時代には、近隣数軒でしか使わない通路は、その数軒で管理し、
運営してきたはずである。
それが「公共」というものの起源であると思う。
大都市であれば、現在の「公共性」でよいと思えるが、
小さな地域社会における「個と公共の断絶の深さ」は目を覆うばかりだ。
現代社会は大都市管理に特化しすぎていて、
小さな地域社会には、不適合を引き起こしているのではないか?
Posted on 3月 29th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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