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不揃いな玄関敷石たち

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わたしはひとつの案件があって、出張に出るときには
なるべく時間にゆとりを持たせて、住宅行脚、建築行脚を心がけています。
建築を見る、住宅を見るというのは、
ひとによって見方というものは違いがあるだろうと思います。
先日も韓国の民家を見学してきて、
ひたすらその寸法を測っている工務店の同行者のひともいた。
わたしの場合は、なるべく想像力を巡らせて、
そこの場所での暮らしようとか、生活感受性の把握を心がけている。
そういう取材態度だと、ときどき無性に惹かれる素材感に出くわしたりする。

写真は、2月に行った白川郷の神田さん家。
玄関土間に敷き込まれた敷石のみごとさに驚いていたら
家人の方から、真ん中にあった台板をわざわざはずしてくれて
写真に、その土間の様子を収めさせていただいた。
やや緑がかったその敷石は、なんとも不揃いで、
ちょうど土間の真ん中近くには、どうしてもうまく収められなかったスペースに
小さなピースを埋め込んだ様子が見て取れた。
この、いかにも不揃い、という感じにいたく惹かれてしまった。
ここまで不揃いであるということは、手作りであろうことはあきらかで、
よくみると、ワンピースごとの石の形状・大きさもバラバラ。
この石がどんな素性で、どんなプロセスでここに使われたのか、
そういった「取材」は出来なかったけれど、
その風合い、佇まいから、いかにも古民家に似つかわしく、
しかし手のかかりようを顧みれば、
職業的な専門職の手とも感じられた。
これが先人の人たちの手仕事の結果なのだとすれば、
まことに「百姓」の仕事というのはすばらしいものだと感じ取れるけれど、
さてどうなのかと、想像の羽根が広がっていった次第。
しかし考えてみると、江戸期には「石垣」という建築の技が
普遍的に用いられていたのだから、
こういった「土木技術」も、一般に広く普及していたのかも知れない。
プロであるか、どうかはわからないけれど、
一般的には土を突き固めた「土間」が多かったなかで、
このような床面仕上げが可能であっただけ、
民の暮らしにもゆとりがあった、生産力の向上があった、
というような背景は見えてくるのだと思いました。

それにしても、こうした手の込んだ仕上げからは、
住まいというものへの人間の思いというようなものが
自ずと深く感受されてきます。
先人の住宅文化へのリスペクトをあらためて感じた次第です。

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