日本は「百姓の国」。
歴史家の網野善彦さんが繰り返し言っていたように
「百姓」とは、読んで字面のまま、さまざまな「生業」を表す。
農本主義がさかんに喧伝されるようになって、
百姓が、農民とイコールという誤解・刷り込みが行われた。
それは同時に農業生産性の向上が、
日本の権力者の一貫した意志だったことも表しているのでしょう。
封建領主の序列判定において、まずは「石高」が優勢だったりする。
しかし、日本社会では職人へのリスペクトの文化も強く存在する。
中国では、科挙を経て出世するコースに乗った人間は
体技を軽蔑するような文化伝統が主流になっているのに、
日本では、たとえば貴族が「お家芸」として、なにかひとつの体技を持つ、
そういった職人仕事への文化態度が主流。
職人のことを、古くは「道のもの」という言い方もする。
なんとか道、というようなことで、その職人仕事領域を究めるべき道と
そのように表現することで、切磋琢磨を生んできたのだろう。
古く、普請とか、作事とかとも表現された
木造建築技術は、そういった職人仕事でももっとも初源的な領域だったのでしょう。
律令の体制が整って、定置的な「都」造営という事業が
国家の公共事業として取り組まれはじめた奈良の世から
ほかに農業生産物などでの税金納付がおぼつかなかった「飛騨国」が
「大工人工」を税として国家に差し出して
奈良の街区造営の仕事にかかり、宮殿造営から
大寺社建築建設など、大型木造建築のその仕事の見事さで
「飛騨の匠」として、プライドを勝ち得ていったとされています。
飛騨は森林資源に豊かに恵まれた地域であり、
そういった技術文化伝統が、それまでの文化積層の中ですでに育まれていた、
そう考えるのが自然なのだろうと思います。
この「大型木造建築」という領域で考えると
日本列島社会では、それ以前に先行するのは、出雲大社建築や、
もっとさかのぼって、縄文の三内丸山などにまで連なる。
そういった大型木造建築についての技術が、最大の資源産出地域としての
飛騨国に、根付いていたのでしょうか?
こんな歴史の「ミッシングリンク」に想像を巡らせたりします。
この写真の絵は大工仕事の絵図としてポピュラーですが、
いろいろな大工道具を巧みに操りながら一心に作業にふけっている。
木材加工の各段階も垣間見えてきますし、監督者としての
「棟梁」とおぼしき人物の姿も見えています。
まことに生き生きとした仕事ぶりが伝わってきて
たのしくて、大好きな絵のひとつであります。
Posted on 10月 26th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 古民家シリーズ
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