きのうNHKテレビドラマ「マッサン」の舞台としての
ニシン番屋建築、北海道開拓の村に残っている
「青山家漁家」のことを書いたのですが、
そうしたら、たくさんの北海道・東北の建築家のみなさんから
わたしのFacebook宛てに書き込み・投稿をいただきました。
だいたい、わたしの元投稿には建築写真が掲載されていなかったのに
わざわざ、外観写真まで投稿していただいた(汗)。
まことにみなさんのご協力に感謝申し上げます。
見に行った建築の写真はきちんと整理整頓しておかなければと
深く反省しております。
で、きのうようやくすこしづつ整理を行っておりまして、
最近では8年前に、くだんの建築について写真を撮っておりました。
そこで「発掘」された画像を見ていて
断片的に、いろいろな想念が沸き上がってきました。
江戸期から昭和初め頃まで、
北海道西部海岸地域では、ニシンの群来に湧いていた。
いまではその残滓が、遺された建築として見るしかないのですが、
網元としての親方連中の成功ぶりはハンパなかった。
ニシンは綿花生産のための「金肥」として
日本各地の畑で使われ、いわば繊維産業のコメとして重要な資源だった。
この建物を建てた青山さんは、刺し網漁での漁法技術革新で
巨万の富を得たとされています。
こうした成功者たちは、明治開国以降、横浜などの貿易に
新たな活路を見出していったと言われています。
で、こういう漁業産業の労働力として
本州各地から「やん衆」といわれる労働者が集められた。
かれらの宿泊機能は、こういう建築の大きな機能要素だった。
写真はいろり空間外周に造作されたベッド空間と、
いろりそばでの食事のための食器セットです。
それぞれに「立って半畳、寝て一畳」のような
日本人の得意な合理主義精神が際だって発揮されていて、
見ていて、清々しいまでの気分を起こさせてくれます。
Posted on 1月 13th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 古民家シリーズ
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