日本の古い時代の風景は、
今日の海水面の状況からはまったく違う様相だった。
というように言われている。
実際に浮世絵などで、たとえば常州(常陸国とくに南部)などでは
水上生活者の様子が描かれたりしていて、
現代の風景との相違に気付かされる。
写真は、利根川河口周辺の様子なんですが、
関東というのは、このような常陸国の風景と、
江戸湾内部でのリアス状の海岸線状況が特徴的な
いわば「水郷」的な状況が一面に広がっていたというように言われる。
現代からは、想像も出来ないんだけれど。
列島社会に成立した古代の本格的な律令国家は、
中国的なあくまでもまっすぐな陸の道路を「国土」の隅々まで貫徹させることを
基本に置いて国家建設を強行したけれど、
実態にまったくそぐわず、結局破綻に次ぐ破綻の結果、「伝統的」な
海上交通、舟運ネットワークによって、実質的に運営されていった。
そこがまた、葦原の中つ国といわれる農業水利にも適した地域だった。
基本的には小麦生産に依拠した中国的古代律令制と
コメ生産に立脚した列島社会では、
国の風景そのものがまったく違ったのだろうと思われます。
そういえば古代国家で関東の中心は下野、上野の国であって、
この写真のような風景の地域は汽水地域でもあり開発も遅れていたのだろう。
それが農業土木の進歩で、むしろ水利の良い地域とみなされ
大開発領主が歴史に出現するようになる。
いわゆる「板東平氏」というような連中が出てくるのは
大規模な農業地帯化が出来てきたということを表しているのだと思います。
鹿島神宮の例大祭に竜頭の船を使う祭礼があるそうですが、
その由来は、水郷地帯のなかの「島」で
しかもたくさんの「シカ」が住んでいた「鹿島」が
上古からの神聖空間になっていたことを伝えてくれているのだと思う。
たぶん、古代にはまるで瀬戸内海の弥山のような
厳島神社のような自然崇拝の対象だったに違いないと思います。
その背景に、こうした水郷風景が広がっていた。
列島社会の歴史の中で
こういった風景感覚が不可欠な背景条件であることが
どうしても抜け落ちているらしい。
わたしの住む北海道でも、札幌を含んだ石狩低地帯という地域は
このような水郷地帯であって、
太平洋側と日本海側とが、水郷と河川交通で繋がっていて
往来には、陸の中の「港」のような施設があって
船が使われていたということ。
歴史を考えるとき、そもそも風景、背景が違うということに
もっと想像力を働かせなければなりませんね。
Posted on 7月 4th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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