わたしはことし62歳で、団塊世代というくくりとはやや違います。
しかし5人いる兄姉たちは、まさに団塊世代そのものであり、
意識においてはほぼ認識を共有している世代です。
最近は、文藝春秋で「団塊戦犯論」が発表されたりしていますね。
とくに社会保障制度、年金などの点で、
団塊世代は、完全に「勝ち逃げ」世代だとされてきている。
それ以降の世代、とくに40代以下の
社会保障制度、年金システムでは、必然的に負け組にならざるを得ない世代からは
次第にその姿勢に対して、論難されるようになるのも理解出来るところ。
最近では、原発のような社会全体にとっての基盤エネルギー問題でも
その大きな意味での利益をいちばん享受してきながら
無責任に、それを廃棄することが人類的な崇高な使命だ、などと言っていると
後続の、団塊世代の社会保障を支えることになる世代から
ヘイトスピーチに似た非難も浴びせられるようになって来た。
自分自身でも、息子や娘たちが生きて行くであろう世界の
困難性に意をいたせば、そのことには深く同意するものです。
そして、いろいろな会合に出ても
ヒシヒシと、「人口減少社会」が迫ってきている実感を持たざるを得ない。
首都圏などは、いまでもアジアからの「研修生」というかたちの
一種の移民の流入の受け皿になっていて
さらに他地域からの人口移動もあって、
人口は漸増傾向にある、とされている。
マスメディアの集中する地域では、この痛みが感じられないということは
たぶん、その痛みが社会全体には伝わらないということに結果しそうだ。
すでに、東北北部の県を中心に本格的に人口減少が数字に表れてきている。
人口減少は、そのように跛行的に進行し、
地域間格差のさらなる拡大としても大きく表出してくるのだろう。
首都圏から発信される情報には、このような現実が反映されにくい。
さらに地方には若い女性がつける職が極端に減少して
そういった魅力の減少も、顕著に表面化してきている。
わたしたちの、ごく身近な局面でも
このことは、最大のテーマとして浮かび上がってこざるを得ない。
きのうまで住宅関係の業界団体の例会に出ていたけれど、
たとえば「中小零細企業の後継者問題」ということにも
このことは大きく影を投げかけざるを得ない。
マーケットがどんどん縮小することが見えてきている社会で
どのような「将来への夢」を持てばいいのか、
解決の糸口はサッパリ見えてきていないという嘆息がもれる。
アジアへの拡張というかたちしか、
移民政策の本格的な始動という方法しか
日本には選択肢はないと思うけれど、
そうなったときの社会システム維持について、
大きな論議が起こっているともおもわれない。
それを否定的に論ずるゆとりはいまはなくなってきている。
縮小する市場環境の中で、それでも投資をする人間・企業はないのだ。
こういった民族的な困難に対して、
やはり「経営的な視点」をもって当たらなければならないことは明白。
すでに分水嶺は過ぎてしまっている、と思います。
Posted on 4月 17th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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