日本画家・後藤純男さんの絵を見ていると
金色の使い方が実に効果的で、いわばその風景と季節感の中で、
見えないけれど感じられる空気の色、光の一瞬の輝きとして表現されているように感じる。
そしてそのように感じると言うことにおいて、
わたしたちはDNAを同じくしている、という実感を持つに至っている気がする。
オホーツクの流氷の絵において、
鈍くどんよりとした空と海のなかで、
しかし、海の色や空の雲の合間などに
黄金の輝きが着色されている様には、秘めた色気すら感じる。
写真は、ここ数日中にわが家のまわりで見たごく日常的な光景。
上の写真は、いま芽吹きの直前で、あわく輪廓も定かではない木の枝先に
そんな黄金を感じている。
そして下の写真は、あざやかなフキノトウの若芽。
こちらも下地にどんと金色を使っているような
そんな圧倒的な明るさの、みごとなまでの量感を感じさせられる。
わたしたち、日本人はこうした四季認識の世界に生きていて
そのことから圧倒的に癒されて来つづけた。
そう思うと、初日の出の黄金を愛玩し続けてきたわたしたちの慣習なども
そういった民族性に由来しているのか、
いやまたそのことが、民族的精神性を育ててきたのかも知れないとも思う。
とにかくも、
日本画家としての画業において
その「花鳥風月」精神を、北海道の自然の美の中に再び発見し、
この地で日本美の創作に向かっていただいていることに
北海道人として、喜びの念を強く持っています。
北海道は気候風土としては
むしろインターナショナルな気候に近く、
建築で言っても、赤煉瓦庁舎や、北米2×4の原型である時計台など、
日本的ではない文化様式からスタートし、
住宅性能に至っては、まったく世界標準的な志向性に向かっていって
日本にはほとんど学ばなかったのだけれど、
しかし、住み暮らす感受性の部分では、
たとえモダンスタイルであっても、その下地に花鳥風月の心情を
深く感じさせられるような空間嗜好を感じている。
住宅の性能面の「進化」と同時に
デザインの面でも北方の日本人としての「深化」が実現して欲しい。
そんな思いで、日々、住宅を見ているように思う次第です。
Posted on 4月 16th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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