雪かき山、っていう言葉は別に一般語ではありません(笑)。
わたしの勝手な造語であります。
雪かきは雪国人であれば、だれもが普通に行う冬の生活営為。
なんですが、先日住宅評論家の南雄三さんのメールマガジンを読んでいて
東京に降った雪のことが話題になっていて、
その雪かきが、思わぬ「地域社会」を照らし出すきっかけになった、
というお話しが書いてあった。
たまに雪が降ったりして、はじめて隣近所にいるひとと会った、なんていうのですね。
現代人とそれ以前の、地域社会に属して生きることの方が主流であった時代人と
決定的に違いがあるのは、こういったことでしょうか。
明治以前、あるいは経済成長が始まる前と後、というようにも言える変化。
それは、地域に生きると言うことが
生産手段とほぼ一体となった「地域密着」生活だったことを表していた。
だから、地域の祭りとか、共同生活のためのしきたりとかに
縛られるのが当たり前なのが日本人の暮らしの主流だった。
そこでは当然のように、社会規範ルールが存在し、
それを尊重することが、法律で決めたことよりも以前に必要なことだった。
こういう社会規範に対しての従順さが、良くも悪くも日本人の特性だった。
大雪が降れば、みんなで協力してまずは自分の家の周囲を、
そしてそのちょっと先に「公共」というものがあって、
それへの責任を容易に受け入れていた。
左翼系の歴史家であった網野善彦さんの記述ですら
日本では有史以来、年貢とかの公的負担それ自体に反抗した民衆一揆がない、
ということだそうですが、
そういうことへの従順さが日本人の奥深い精神性に刷り込まれている。
で、南さんの家の周囲でも、平成のこの世でも
やはりそういった公共心の発露が随所で見られたのだそうです。
というようなことが、北海道では
毎年毎年、それも冬の間ほぼ毎日のように
必ず、やらなきゃならないこととしてやってくる(笑)。
とりあえず自分の、あるいは家族のための営為として始めるのだけれど、
そのほんのちょっと先に、「みんなのため」のことが存在している。
断熱と言うことが北海道では「当たり前」のことであるのに
本州、関東以南では
工務店・住宅メーカーの企業差別化要因であるということの
考え方の違いの背景に、どうもこういう体験要素があるのではないか。
そんな気がしております。
で、こういう雪かきによって出来上がる雪山の様子が
わが家前では、ことしもエベレスト級の迫力になって来まして(笑)
なかなか造形的に面白くなってきた。
雪を掻き揚げ、盛り上げていく角度がかなりの急傾斜になって来て
放り上げる高さが2mをはるかに超えるようになって来た。
・・・むむむ、ヤバそうなのであります・・・。
Posted on 2月 12th, 2014 by 三木 奎吾
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