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生きがたき不条理にいのちを繋ぐ

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歴史が好きだったりすると
過去の社会についての想像力のよすがを求めて
現代社会をアナロジーすることになりますね。
こういうときに、いまのわれわれならこう考えるけれど、
昔の人は・・・っていうふうに。
しかし、現代という社会は、過去のどんな体制の社会とも大きな違いがある。
それは大衆化状況の進展とでもいえることでしょう。
で、実際に起こったことには、
ある種の制約がかかって、こういう風になったのだと理解出来るようになる。
そのうちの最大のものは、やはり社会構造が全然違うということ。
現代のように権力機構に「民主主義」原則が働き、
法律で意識も支配され、マスコミで「意見」も支配されているのとは、
大きく状況が違って、やはりナマの権力の存在感が大きい。
ひとが成功を収めたいと考えたら、
非合理な社会の中である、ということへの理解が必要なんですね。
キャップが閉じられていて
その枠内でしか、生きていくことができない社会。
そのなかで成功したいと考えれば、非合理性を受け入れるしかない。

わが家系は、明治4年に動乱の時代の中で
焼き討ち事件に遭遇しています。
そこから立ち直るのは大変だったようで、
結局、明治の末年に一家を挙げて
祖父は北海道への移住を決断している。
で、この明治4年の社会動乱というのは、廃藩置県に伴うもので、
武士階級が解体させられる危機感から、
当時の藩の武士たちによって教唆され、実行された動乱のようなのです。
大名たちは、東京に家屋敷を補償され、
華族としての待遇も補償されたので、
抱え続けた「家臣団」への給付義務から解放され
むしろこうした新政府の方針を歓迎したというのですが、
それ以下の武士たちは、廃藩置県によって多くは路頭に迷わざるを得ない。
やがて西南戦争に引き継がれる武士層の反乱の嚆矢だったといえるのです。
そういった環境の中で引き起こされた旧幕府体制のなかでの
経済権益層への集団的略奪のターゲットになったということ。
そのような、それまでの行政や裁判管轄も持った層による「乱」なので、
その被害を被る側は、たまったものではない。
泥棒と裁判官が一体のような状況の中では
被害申告先も見当がつかないだろうし、
当然のように証拠もないだろう。
また、それまで「お世話」になった階級からの背中からの襲撃なので
対処のしようも、考え付けなかっただろう。
江戸期の社会の中での成功を求めて
そのなかでの常識的な生き方を一生懸命に生きたのでしょうが
まことに不条理な困難を背負い込んでしまった。

歴史の中を生きてくると言うのは、
まことに過酷な条件の部分があると思わざるを得ませんね。
しかし、そのような状況を知ることが出来たのは、
顧みて、どう生きていくべきか、
深く考えるよすがにはなると思います。

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