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平泉・茅葺きの能舞台

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ことしも今日が仕事納め。
とは言っても、来年に向けて打合せや計画づくりなど、
作業は休み中も結局、継続しそうではあります。
しかし、まぁ、閑話休題。
ことしも休まず、書き続けてこられたので、
また、がんばっていこうと思いますが、
年末年始の時期には、すこし歴史系のテーマを増やして、
日頃の「うっぷん」を晴らしたい(笑)、と考えています。
仕事が関係なければ、やっぱり歴史にどっぷり身を浸していたいのが
わたしの本性なのではないか、というのがブログを書き続けてみての実感。
そういう意味では、ブログって、自分自身を知る鏡でもありますね。
仕事の関係で、日本中、とは言っても北日本中心ですが、
歩き回るなか、ちょっとした時間を見つけてはいろいろな土地の
歴史遺産のようなものに触れたくなるのです。
北海道のみならず、東北各地を巡るようになって、
幹線的に東北自動車道を使うので、必然的に平泉は定番になっています。
平泉・奥州藤原氏については、敗者の側の歴史ということで、
比較的につまびらかではない部分もあり、
大きくそそられるものがあります。
開祖である、藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて伽藍を整備したのが、中尊寺の創建とされます。
というのが通説ですが、それ以前に天台宗の実質的創業者
第3代天台座主である円仁(慈覚大師)が嘉祥3年(850年)、
関山弘台寿院を開創したのがはじまりともいわれます。
円仁については米国大使であったライシャワー氏が注目し、研究されたことでも有名。
かれは日本最初のリアリズムに満ちた旅行記を著したことでも知られます。
こういう茅葺きの能舞台まで残されている中尊寺。
能は、どのような機能を果たしていたのか、
民衆のための舞台と言うよりは、もうすこし権威的なものではあったと思いますが、
きらびやかな衣装をまとってた役者たちが
この地で舞い演じたさまを想起すると、さまざまな想念が沸き上がります。
多くの肉親を戦乱の中に失ったり、殺し合ったりした
藤原清衡が、鎮魂の志も込めて、この地にこの寺を建てた思いも
そうしたなかで、見えてくるような気もします。
昔の人たちが、いったいどのような思いを持ってこうした建築を遺し続けてきたのか、
そんな興味は、尽きることがやっぱりありませんね。

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