住宅に関連する雑誌を編集発行しているので、
当然ながら毎日のように、人工物としての住宅に関連する写真を見たり
その作られように思いを致しながら過ごしています。
で、きのうある設計者の東北被災地を訪れた述懐を読んでいて
ふと、その言葉に止まってしまった。
人工物が津波で全的に崩壊している光景に接し、
さらにリアス式の海岸線のたとえようもない美しさにうたれて、
「ひとが作り出すものと、自然の造形との落差の大きさに深く打たれた」
という率直な感想であります。
そうなんですね。
あるひとはそれを、「自然のデザインは完璧である」と表現する。
画家にとって自然と対話するデッサンの時間は
かけがえのない「ゆりかご」時間なのだと
思いますが、それはわたしたち一般人でも変わりはない。
いつどこへいっても、その地の自然の豊かさに深く驚かされる。
写真は、先日訪れた層雲峡の滝の根元部分。
岩がごつごつと転がっていて、
そのなかを滝からの水しぶきが通っている。
この自然の営為は、いっときも途絶えることがなく継続していく。
この営為の中で造形として、こういった面白い景観を作りだし、
わたしたちに垣間見せてくれる。
生きているこの環境が生み出しているデザインの数々には
本当に打たれざるを得ない。
そういった自然の大きなデザイン力の前で、
わたしたちの作りだしてきた形あるものは、
どこまでの時間に耐えていくことが出来るのか。
ヨーロッパの石造りの建築物の数々、
さらに近代になってその石造に連なる技術としての
鉄筋コンクリートとガラスが生み出した「炭素年代的」と思っていた
造形物は、本当に長い命を持ちうるのか。
そんな思いをなんとなく感じさせられた次第です。
そういえばことしは伊勢神宮の20年に一度の「式年遷宮」の年です。
わたし、見にいったことがないのです・・・。
簡素な白木木造で、自然と向き合ってきた日本建築には、
こういう疑問、悟りに対応した「造ることの知恵」
のようなものがあるのではないかと、
そんなことが想起されてきます。
ということで、本日も北海道神宮の森の中を散歩して参りました。
どうも、最近、神社大好き系になってきているなぁ・・・・。
Posted on 7月 24th, 2013 by 三木 奎吾
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