先日、岩手県南部水沢周辺を移動中、
偶然に「鳥海の柵」という案内看板を発見したので、つい見学。
鳥海の柵といっても、歴史好きでもない限り、あんまり知られていませんが、
東北の歴史の中でその存在感が増している「安倍氏」の主要城郭のひとつ。
以下、Wikipedia他からの紹介。
鳥海柵(とのみのさく)は、岩手県胆沢郡金ケ崎町にあった、平安時代の豪族安倍氏の城柵。安倍氏十二柵のひとつ。
鳥海の柵は胆沢川左岸の東側に張り出した河岸段丘上(比高10m前後)に築かれた単郭の城柵で、規模は東西300m×南北200mほど。柵の北・南側は沢が切り込んだ小谷地形を濠として利用し、西側の丘陵部も堀で仕切っていたと推測されます。内部は耕作地として改変され、丘陵基部も東北道建設で破壊されていますが、発掘調査で竪穴式住居祉・堀立建物祉・焼土遺構が確認されています。
鳥海の柵は胆沢川左岸、西から東側に張り出した河岸段丘上に築かれた単郭の城柵です。(写真左上) 規模は東西300m×南北200mほど。東側は胆沢川に面した沖積地で往時は胆沢川の氾濫原だったと思われます。内部は耕作地として改変され遺構は確認できませんが、北側の濠は良好に残存しています。
という概略であります。
安倍氏というのは、平安国家の北方征服戦争の結果として置かれた
胆沢城・鎮守府で、地元側の有力者として交易活動の実質的な窓口になって
成り上がっていき、勢力を伸張させたのだと思います。
北方との交易による「宝・貢ぎ」は、平安国家にとって
貴重な「交易資源」だったのでしょう。
ということは、その実質を運営するのは、当時の経済活動の核心部分。
そうした新たな実質的利益を巡って、その利権に群がったのが、
源氏の一族だったのでしょう。
そのような背景から前九年・後三年戦争は起こっていった。
この鳥海の柵のような経済的軍事的要衝に位置する柵〜実質的な城は
全部で12、確認されているそうです。
東北中心部、広大な陸奥国の経済活動総体をコントロールする地域だったのでしょうから、その重要性は当時の社会構成の中でも大きかっただろう。
とくに、ハッキリと国家領域が定まっていないということは、
現地での権力行使者にとって、魅力的だっただろうと推測します。
こういうフィールドワーク、実際にその場所に立ってみる、
という行為は、リアリティを持って想像力を高めるのに非常に有効。
ライフワークにふたたび活力を与えてくれました。
Posted on 9月 9th, 2012 by replanmin
Filed under: 歴史探訪