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学問と学問の間

わたしは歴史が大好きなんですが、
北海道って、残念ながら文献に残っている文字記録がたいへん少ない。
この地に生まれ育っているけれど、
そういう人文的積層を感じられないのが残念なのですね。
なので、文字記録ではない、考古的研究の方に
その記録などに、興味が行くようになってきています。
そんな研究者の中でも、旭川博物館の瀬川拓朗さんの著作などには
大いに刺激を受けている次第です。
で、最近はこうした考古学と歴史学との「学際的研究」が進んでいるようです。
考古学というのは基本的には発掘されたモノを
いわば実証的証拠として、そこから推論を立ち上げていくような研究。
一方の文献記録研究に近い歴史のアプローチがあって、
それらを重ね合わせることで、新たな知の発掘を目指しているようなのです。
こういった試行は、すばらしいなと日頃感じている次第。

そういうなかでは、建築ってどうなのか。
先日、筑波大学の安藤邦廣先生にお会いして
戦国末期の京都の状況などを重ね合わせた木造建築の歴史研究のお話を伺って
目の覚めるような思いをしたのですが、
それは、スペシャリストとして、閉じられた領域の中だけで
物事の本質を見ようとはせず、時代背景を含めて総合的に判断しようという
そういった「学際」的な姿勢を、初めて建築研究者から聞いたからです。
でも多くの建築研究者のみなさんは、相変わらず、
それぞれの専門的分野に閉じこもって、
その範囲内だけで、スペシャリストとしてふるまいたいと念願している。
そうした姿勢は、きのうまでの積み重ねのなかで思考していこうという考えを感じます。
まぁ、それでよかったのがこれまでなのでしょうね。
その道の専門家、プロは間違いなく安心できる、
というような世界観がその根底にあるのでしょう。
しかし、たった1000年に一度、起こる確率のことすら、
これまでのそれぞれの専門フィールドでの各自の研究からは予測できず、
未曾有の惨禍を経験したばかりなのですね、わたしたちの社会。
スペシャリストの、どうでもいいような繰り言ではなく、
事象と事象を重ね合わせて、実践的な「どうすべきか」という
社会の選択に意味のあるように、学問領域の相互撹拌をしなければ、
どうにも出口なしは解消できないのではないか。
とくに住宅や建築の方で、
国の施策も含めて、相当に硬直してきている。
それは、学者代表のスペシャリストという存在が、
あまりにも基本的「想像力」を失っていることが要因だと思う。
原子力委員会、原子力安全委員会の蹉跌に
わたしたちは、社会として学ばなければならないのではないか。

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