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土間に癒される

日本の住宅には土間が伝統的にあって
その醸し出す独特の温湿度環境が、日本人の精神のなにかを造形していた。
わたしにはどうしてもそういう風に思われる。
土間を失ってからの日本人の暮らしに
ある致命的な喪失感があったのではないか。
それは「いなか・地方」的なものに対する「進歩」の概念として
「都市化」ということが普遍性を持って進展したことの結果だったのか。
都市には、過密が一対の概念で導入され、
希少化する土地条件の中で
床を張ることが出来ないという土間の本姓が、否定的に捉えられたのではないか。
スペースの利用効率を高める、という社会的な欲求が
個人レベルの住宅づくりにも貫徹され、
「なんとなく非効率そうな」土間が格好の餌食にされたのではないか。
京都町家という過密の中での都市住宅文化でも
きちんと土間が有効に活用されていた伝統があったのにもかかわらず。
特に戦後以降、欧米化の生活様式がテレビで流され続け
土間のないサザエさん家のような家が普遍的な日本の家屋として
イメージされ続けたことも大きいと思われる。

で、土間にたたずんでいると、
突き固められ続けてきた土が
室内に独特の空気感を与え続けていることに気付く。
土は、自然に存在するもので、吸放湿性がもっとも簡便に実現できる。
また、蓄熱性も大いに期待できる。
夏の暑い時期には、大きな屋根によって日射が遮られて
日射取得しない土間には、一定の温度環境が露出している。
内外の温度差環境を生み出す基本装置になる。
出入り口をいくつかの方向に対して工夫してやると、
実に心地よい風が室内を渡っていく。
土間には左側にあるようにかまども据え付けられて
毎日、煮炊きすることで、熱を土壌に伝え続けてもいる。
人間がここちよいと感じられる空間性能の基本を満たしている。
当たり前だけれど、そういう叡智が
こういう空間にいてたたずんでいると、理解できる。
なぜ、こんなここちよいものをなくしてきたのか。
進歩とは一体何だったのか。
いま、こういう土間を再現しようと考えると
土をどうやって加工するか、そういう技術すらすでに一般には失われていることに気付く。
やむを得ないから、タイルなどを貼って土間としている。
吸放湿性の面から考えたら、そういうのは本来、邪道だろう。
こういう空間にいると、つい、もう少しいたいなぁと思ってしまう。
こういった種類の居心地の価値をこそ、
住宅建築を専門としているひとたちはもっと考えるべきではないのか。
とくに大学教育機関に於いて、好き放題のような
視覚的な「見たこともない空間」に価値を見いだしたい、という
幼稚な価値観を学生たちに注入し続ける愚を、そろそろ脱却して欲しい。

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