北海道神宮は明治2年末に開拓判官・島義勇が開拓三神を背中にくくりつけ
函館から陸路北上し、余市を抜けて小樽市銭函に至り、
そこで停留し、年の明ける頃にようやく「札幌本府」建設の槌音が響きはじめ、
翌年ようやく仮の開拓三神鎮座所が札幌市中央区北5条東1丁目に建てられた。
その後、札幌本府内の風水のよき土地を諸人が跋渉して
結果、現在地である円山の麓、札幌市中央区宮ヶ丘に本格的に社殿建設された。
社地選定に当たっては、開拓使が乗り込む前からこの地に住んでいた
福島県人の早山草太郎が好適と建言して採用とされている。
かれは開拓三神を公儀決定に先立ってこの地で祀り、奉仕していたとのこと。
周辺敷地は開拓当時の建設業者・中川源左衛門が所有していたという説もある。
写真は現在の神宮敷地の「北海道神社庁」周辺の様子。
1枚目には右手に杉林、2枚目右の鳥居から左側には杉林が展開している。
この一帯は、杉の北限自生地であり、たぶん神社と杉木立という「好適性」が
決定の大きなファクターだったのではないかと思われる。
広葉樹の森の中にすっくりと立つ杉林にはその土地の「意思」を見るのでしょうか。
なににしてもまだ明治の初年であり、対ロシアの国境交渉すら流動的な情勢の中、
対ロシアの脅威への備えとして、全国で唯一北面して建てられた社殿。
開拓しながら国防にあたるという北海道の原初の国家意識がみえる。
本格的な「航路」開拓前の段階なので、東京からの「建設現地視察調査」はムリ。
場所の決定については、開拓判官・島義勇が現地担当官として現地決済した。
ただし彼の建設計画は壮大すぎて当時の政府支出は追いつけなかった。
この写真の光景は、周辺が太古の自然のままに保全されていることから
社地選定時にも同様の森の樹相だったことが窺われます。
円山の麓の自然林の一部であり、札幌一帯を跋渉しても杉の自然林は
ほかでは見られなかったなかで、かなり密に杉林が自生しています。
この光景をはじめて発見した人たちはきっと興奮したのだろうと思います。
神社建築というのは、単純な公共事業というよりも、
もっと国家そのもののような事業だったことでしょうから、
この蝦夷地で、このような立派な杉林が、と感嘆したことでしょう。
日本人の神さまが、神宿るのにふさわしい「風水の地」。
いまは手前側が駐車場になっていて、この杉林はよりクローズアップされる。
2枚目の写真から鳥居をくぐって大きく左折したあたりに社殿は位置している。
ちょうど杉林が繁茂している中心の場所に立地する。
1枚目の写真は、その社殿の奥で小川が流れているやや低地の流域に杉林。
わたしの好きなオオウバユリの自生地も点在する。
住宅でも「敷地選定」ということが、かなり決定的要因ですが、
神社建築ではまさに枢要中の枢要のことがらなのだと思います。
この北海道神宮の遷座立地が確定したことで、
周辺敷地は「宮ヶ丘・宮の森・円山」という住宅地最好適地として人家が集積し、
いまでは北海道有数の「高級住宅街」を形成している。
日本人にとって中心的宗教施設と住宅立地は、近接応答する関係にあった。
ムラ社会の「鎮守の森」思想は、営々と民族DNAに受け継がれているのでしょう。
Posted on 8月 4th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.