江戸から明治へ、局地的な戦闘はあったけれど、権力の中心
首府江戸は無血で開城されその主人が徳川将軍から天皇に代わった。
政変に伴う大破壊は回避され、あらたな権力意志表現の建築機会はなかった。
それは消滅の危機にあった都市江戸の再生延命につながったので
民族史的には喜ぶべき事だったように思えるけれど、
では明治という新政府は、どういう「概念思想」で国民に臨むのかは
必ずしも明確な意志を表明する建築機会がなかったともいえる。
明治の変革は貨幣制度・暦・欧米との「外交」など
信じられないほどの「革命」を社会にもたらしたと思います。
令和のいま、振り返る機会を作ってこのブログで追体験しているけれど、
その「青年国家」ぶりが非常に清々しい思いを抱かせてくれる。
そういうなかで明治国家は北辺国防も兼ねた北海道開拓・札幌都市建設をもって
新国家思想を「建築」的に表現したのではないか、と思えてきた。
きのう掲載した「開拓使仮庁舎」写真では城郭建築的な「土塁」が築かれている。
しかしそのあとの本庁舎ではそういう「防御的」建築機能は
失われてしまっていることを読者から指摘された。
建築とは、やはりその「性格」が明瞭に表されるものなので、
この「権力意志」の変位とはなにかと考えるきっかけをいただいた。
開拓使の先行建築としての幕府権力の現地中枢施設、五稜郭・函館奉行所は
西洋風とはいえ「城郭建築」であり「城下町」的な街の発展があった。
一方札幌は完全に国防思想からの開拓であったのに、本庁舎建築以降、
堀や土塁といった城郭的防衛建築思想は採用されなかった。
ケプロンやホルトなどアメリカ人が設計アイデアに参与した「開拓使本庁舎」は、
まったく民主主義的な「ホワイトハウス」的な思想イメージと感じられる。
国内内戦を通過して、国民に対してはみな公平平等である国家たらんとする
明治国家の建築的宣言だったようにも受け取れる。
敵将であった榎本武揚の助命嘆願を攻撃軍の総大将・黒田清隆が
坊主アタマになって訴えるというこの時代の空気感・精神性に気付かされる。
専制的に君臨の権力誇示ではなく、国民統合意志を高めるための象徴建築。
その時代的な意志が表現されたのが、この開拓使本庁舎だったと思える。
アメリカ的な民主主義を建築表現したホワイトハウスというのは、
そのシンメトリーな外観構成をみると、なによりも公平平等を訴えている、
そのような思想が建築表現されていると思われるのですね。
アメリカの気候風土とその開拓の歴史から
北海道にもっともふさわしいと自然に考えた結果として受容したのだけれど、
期せずしてかれらアメリカ社会から示された建築デザインはこうであった、
というのが実相ではあるでしょう。しかし結果として
このようなプロポーションの建築をわたしたち日本国家は選択した。
下のイラストはデザインを絵に描いて示した「ホルト」さんの手書きイメージ。
この「デザイン設計者」のことは詳細がまだよくわかっていません。
ホルトという名前は「お雇い外国人」中に「工業」担当者として
そういう名前があるけれど、本来的な建築専門家はいなかったとされている。
推測ではまだしも建築に関連する工業担当者に「お伺い」をして
既述の開拓使建築家・岩瀬隆弘などが、デザインについて諮問した結果、
こういったイメージ図が提示されたものとも思われる。
背景の山々と原札幌の平坦な立地条件が表現されていて
平明で牧歌的な、いわゆるホワイトハウス的なイメージが表現されて微笑ましい。
明治新政府は権力建築は東京では明瞭な表現を持たなかったけれど、
北海道開拓・建設という巨大プロジェクトそれ自体が、
それに相当したのであり、その象徴建築として開拓使本庁舎は
みたこともないモダンデザインとして当時の人々の耳目を集めたのではないか。
今に至る北海道の日本社会での精神的位置、その雰囲気イメージの基層は
このような象徴建築が担い、そして明治が表現した「建築」とは
北海道開拓の総体だった、というような着想を得た次第です。
明治国家は北海道に司馬遼太郎が書いた「坂の上の雲」を描きたかったと。
いかがでしょうか?
Posted on 12月 3rd, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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