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【658年阿倍比羅夫遠征で江別古墳勢力と接触?】


さて北海道住宅始原の旅シリーズ・古代史続篇です。
いろいろなみなさんから情報のご支援などもいただけますので、
やる気倍増で、たいへんウレシク思っております。

やはり北海道住宅は、明治の開拓初期開始された本格的な移住促進、
そのプロセスで建てられた住宅が中心軸になります。
そうなのですが、しかしそれ以前の「前史」もまた、
6000年前の古地形の時代まで含め、奥行きと深さがあると思います。
そして7−9世紀にかけて造営された現地民の痕跡が江別地域に遺っている。
「江別古墳群」であります。
この時代、日本書紀に「阿倍比羅夫の遠征記録」がある(658-660年)。
阿倍比羅夫はその2年後663年には国際戦争・白村江の戦いにも参陣する。
この当時のヤマト政権中枢の国家意志を体現した存在であることは間違いない。
660年の条では「比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考えられる)
のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる」という記述。
一方でこの江別古墳群の創始は7世紀・600年代とされる。
当時の航海技術として難所である積丹半島を回り込めたかどうか微妙だけれど、
この記述の「大河」が石狩川だとすれば、この江別古墳の造営者たちと
阿倍比羅夫が接触し対粛慎(オホーツク文化人と目される)同盟を結んだと、
日本書紀の記録、この条を読むことができる。
古墳なので有力者の死後造営されると考えれば、年代的にも符合する。
この江別古墳群は古地形を踏まえれば「江別半島突端部」であって
石狩川・古豊平川の合流地点の高台に立地する。
古地形としての古石狩湾にも照応する立地と言うことがいえるでしょう。
現代でもこの水系との段丘状の高低差は目視で10m以上はある。
古代においての交通路である河川水運には最高適地で、石狩川の河口までは
指呼の間と言うことができる。
阿倍比羅夫はこの北海道での活動の前には秋田能代や津軽で蝦夷勢力と
平和的外交も行っている記述がある。
一方、この江別古墳群の造営者はその古墳スタイルが
青森県東部・八戸周辺地域の古墳と酷似しているとされている。
古代の勢力分布として考えれば、北東北-北海道一帯に同系統の
勢力が存在し、かれらが阿倍比羅夫・ヤマト政権と協和したとも思える。

どうもこのあたり、日本の中央政権と北海道地域との
歴史的な最初の接触だったという推測を強く持っています。
日本中央国家社会との「交易」の開始も、この接触時に
「生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上」との658年日本書紀記録。
その後、日本中央国家社会は北方交易に強い興味を持ち始める。
北方からもたらされる毛皮やタカの羽根といった「威信材」などに、
深く魅了されて、東北地域への権力拡大を強く志向するようになる。
一方、北方には日本社会から鉄器などが旺盛に交易移出されたと推測。
<しかし実は最重要なものは日本の酒だっただろうけれど。>
その後、こうした日本からの物資を基礎的に受容したアイヌ文化が成立する。
アイヌ文化の住居チセは、鉄鍋を自在鉤で囲炉裏に下げる食文化に変化する。
そしてその「台所革命」の結果、古来の竪穴から平地住居に変わっていく。
この北方の住居革命は、鉄鍋の日本からの移入受容がもたらしたものではないかと。
このような日本と北海道の異文化接触の最初の対象として
この「江別古墳群」という文化勢力に強く興味を惹かれております。

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