本日はわたしの「歴史好き」の機縁になっている家系伝承テーマ。
本来の住宅ネタはお休み。あしからずお許しください。
写真はわたしの家系に伝わっている希少な「書き物」。
文化12年乙亥4月という日付が記載されているので、
1815年4月というように特定できる。今から204年前。
世情は幕末で、活発に外国船が日本に来るようになっている時期で、
北前船交易で高田屋嘉兵衛さんが活躍した時代。
わたしのご先祖さまは尾道周辺で商家として活動していた。
で、わたしはいまは「三木」姓ですが、
江戸期までの日本社会は「家」は必ずしも血縁関係がすべてではない。
むしろ家の存続のために活発に「養子」とか「縁組み」がされていた。
なんと、1742年頃に原氏から「三木氏」に縁組みされているようです。
そういった経緯から、著述者である「三木寛蔵」さんが、
その血族として本来の縁である「原氏」の故地を探訪するために
下の写真のような位置関係で旅をして、そのときに見聞した記録を
後のわたしたちのために書き置きしてくれた書状なのです。
距離的には45km前後なので、往復と調査でたぶん4-5日程度の旅程でしょうか。
ちなみに書き手の寛蔵さんは年齢45歳なので歩いて1日の距離。
その記録で期日は明瞭ではないけれど、「慶長年中」に
「故あって」この探訪目的地・広島市河内町入野に入植したという記述。
慶長という年代はちょうど関ヶ原合戦が慶長5年(1600年)にあたる。
江戸時代というのは徳川の武家政権の時代であって、
こういう「お上」の支配する時代にあって「故あって」と書くのは
ふつうに考えれば、書き記すのに「憚って」ということと想像できる。
「往昔、紀州にて仕官たるところ」と書かれている。
この当時の紀州は豊臣秀長領で、代官桑山氏が実質領主の時代。
一応は縁も強いから表面的には西軍側だろうけれど、
主人・秀長亡き後、城代としては特段そのような思い入れはなかっただろう。
関ヶ原では桑山氏は東西両端を持していたことが容易に想像できる。
たぶん政治工作がうまくいって東軍側とされて生き残っている。
しかしわがご先祖はたぶん西軍側に「派遣され」その後、
勝った東軍側に転換した主家の方針から
自動的に「切り捨てられた」というような経緯が想像できる。
このような複雑な「経緯」すべてふくめて「故あって」と記載したのでは。
その後、入植した入野でそれほどの時間経過もなく「庄屋」になっている。
桑山さんから「退職・手切れ金」がそこそこ得られた可能性がある・・・。
っていうような、妄想をかき立てられる書状(笑)。
しかし妄想ではあっても、子孫としては有為転変の状況に
先祖がどのように対応してきたか、大いに想像力を刺激されている次第です。
Posted on 8月 20th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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