北海道の考古遺跡群はDNA的には縄文の残滓が色濃い。
縄文の人々は、アジアに進出した人類の中でも
いまから4万年前くらいに古層で枝分かれした人々という説がある。
この縄文の人々が日本人のベースを作って、
現代日本人には縄文人の特徴を示す遺伝子型が12%程度認められるとのこと。
それに対して大陸から渡来しただろう弥生文化様式の人々は、
日本列島への渡来としては、第3波を形成する人々という。
だいたい3千年前くらいから列島にきて、弥生的生産様式、
コメ生産に特化した社会を形成した人々だったのでしょう。
その掉尾を飾るのが、百済国家からの列島への集団渡来なのだと。
で、九州・吉野ヶ里では「環濠」で他と明瞭に区切られた
支配ー被支配という関係が明瞭な社会として出現している。
建築としては、高床式の「敷居の高い」建築が支配も表現していた。
ただし、日常生活の住居は支配層も竪穴住居だったとされる。
で、写真上のような畳状の敷物付きのベッドが復元されていた。
見学したのは、いまから15年程度前で、
最近、古建築探訪の記録写真を整理していて気が付いた。
この竪穴住居は「王の家」とされるものの内部で、
縄文の竪穴と違って地面に1段段差を付けたりしているので
「身分制」ということが建築としても表現されたものか。
ほかの竪穴でも下の写真のように、「むしろ」状の敷物が多く復元されていた。
やはりコメ生産技術に特化した社会として、ワラを利用した
生活備品というものが同時進化した様子をみることができる。
畳の素材はイ草ですが、初源の歴史ではどういう素材利用だったのか?
全国畳産業協会のHPで「畳の歴史」コーナーで以下の記述。
〜日本ならではの敷物「畳」が貴族階級から庶民へと普及するまで。
中国伝来のものが多いなかで、畳は日本固有の敷物。その歴史は
「菅畳八重」「皮畳八重」などの記述がある古事記にまでさかのぼります。
まだ畳床などはなく、コモなどの敷物を重ねたものと推測されます。
現在の畳に似た構造になったのは平安時代。板敷に座具や寝具として置く
使い方で、使う人の身分によって畳の厚さやへりの柄・色が異なりました。〜
ということで、古墳時代3世紀を想定しているこの吉野ヶ里展示で
使われている「畳の原初」というのは、暗示的ということで了解すべきか。
畳というのは、日本オリジナルの敷物ですが、
なぜこのようなインテリア装置が発展してきたのか、
コメ生産と周辺繊維質素材との相関だけでは他国との相違が説明できない。
やはり高温多湿という独特の気候風土が関係したのでしょうか?
敷物自体は人間の皮膚感覚としての必然としてそれぞれで進化した。
いろいろな可能性が考えられる中で,日本社会では畳が選択された。
その選択が進むと、独特の文化風土としても昇華発展もしたのでしょう。
なかなかに興味深いですね。
Posted on 8月 12th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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