写真は今回の旅ではじめて渡った瀬戸中央道から四国を望んだもの。
ルーツの痕跡を中心に歴史を探訪し続けているのですが、
どうもこの瀬戸内海世界というものが主役のような気がする。
ながい日本列島での歴史発展の中で、この瀬戸内はまさに歴史を揺籃した。
日本という国は、その成立の過程で深く東アジア世界に関わっているけれど、
その交流は、基本的には北部九州地域が「玄関口」になり、
畿内地域での「応接」に至る「交通・流通」ということについて、
瀬戸内地域は、その大きな部分を担っていたに違いないと思うのです。
陸上交通というものは大変な費用コストがかかったことを想像すれば、
基本的なモノの流通は海運が担ったことは自然。
その海運とはまさに瀬戸内海が主要舞台だったといえるでしょう。
戦国期の織田軍は一度、毛利の水軍に手痛い敗北を喫している。
主に陸上勢力であった織田軍には十分な「水軍力」がなく、
伝統的水軍力優位勢力であった毛利に敵わなかった。
また、石山本願寺があのように長く織田軍と対峙しえたのも、
バックアップとしての制海権を毛利側が持っていたことが
大きかったのだろうと推察できます。
こうした水上交通は歴史的に見れば、同時に「情報力」でもあった。
商業とはモノの値段を掌握することが基本だろうと思われますが、
通信というものが無かった時代には、このような水上交通ネットワークが
もっとも「早く」流通させたに違いない。
今回、中世までの大阪湾地域のビジネスの中心であった堺を探訪し、
その湊から指呼の間である兵庫県姫路・英賀地区間を巡ってみた。
まさに石山本願寺の戦闘力を支えたのは、この海運による兵站だった。
織田氏はいちはやく自治都市・堺を手中にしたけれど、
堺はやはり「自治的」に海上交通勢力とも深く関係し続けていたのだろう。
そもそも織田以前の畿内支配者・三好松永勢力とも深く関係していた。
陸上戦力の多寡が軍事としての戦争では決定的であり、
その戦力は大きくは農業的な生産システムから供給されるけれど、
しかし中世を破壊するのは商業であると喝破していた信長にとっても
どうにも戦いづらい勢力が、この商業ネットワークだったように思われるのです。
陸上のように「関所」を設けて人の流れを管理することは
海上交通に対しては不可能だったのでしょう。
秀吉が結局はこの海上勢力と結託することでその後の歴史は動いていった。
海上交通兵站ネットワークを駆使した石田三成などの豊臣中核には
堺の町衆代表として小西行長などの名も見えていますね。
さらに三木城合戦以降、城主別所長治は自死したけれど、それ以外の勢力は
その勢力を長らえ、江戸期には徳川権力にまで食い込んでいた数奇な事実。
まことにいろいろな発見をすることができた次第です。
しかし、同時にたくさんの「宿題」も湧き上がってきて、
ディープな歴史探偵旅には終わりが決してないようです(笑)。
Posted on 1月 3rd, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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