先日このブログでも写真家の講演のことを書きましたが、
家をどう表現するか、というわたしのメインテーマに非常に近しい領域なので、
実はわたし的には生々しすぎる時間でした。
住宅の写真撮影に数知れないほど立ち会い続け、
住み手や作り手と対話することで、人間のすまいというものの把握、
その感受性部分での「伝え方」を意識下でずっと考え続けることになった。
いつしか個人的興味分野として、そういう「取材対象者」が過去にしか
存在しない古民家を見続け、瞬間的にはくらしの実質を感じられることがある。
さまざまな人間がそこで生きて死んでいった空間から
その断片を切り取ることで、人間感受性の断面を見られると感じています。
ビジュアル体験が過去の人類と比較して圧倒的に「進化」したに違いない
20世紀以降の人間たちは人間が感じた事、この「見える」世界を
どのように表現するようになるか、
そのようにテーマが沈殿し続けているのです。
ようするに「アングルはどう決定し、なにを表現するべきか」なのです。
たとえば上下2枚の写真ですが、
下の写真のような風景の場所に来たときに、わたしはなんとなく
上の写真のようにアングルを切り取りたくなった。
まだ、このように切り取りたくなるということの理由、
その心理的必然性について自分自身ではまだ明瞭ではありません。
ただ、なぜかこのようなアングルに気分が向かったということ。
わたしは20世紀中庸まんなかくらいに生を受けた人間です。
幼児期にはメディアとはほぼ接触が無かったので、それまでの人間と同じような
「見える世界」体験がベースにはあるのだろうと思います。
しかし小学生になるころには、わが家にテレビがやってきていた。
紙に表現されたビジュアルよりも、先験的に大量の動画ビジュアル体験をした。
「見る」という営為はひたすら受動的に見えて
実はそうではなく、見ることでその表現のされ方、ものの見方、
というような部分について圧倒的に大量の情報が瞬時に入ってきて
それらを瞬間的に解析し、その背景意図と対話もしてきたのだと思うのです。
たぶん過去の時代のビジュアルの専門家を幾何級数的に上回る
「ビジュアル体験」を現代の普通の人間がもつ時代を生きてきた。
現代ではさらにスマホという感受性ツールがほぼ普遍化した。
「見る」とか「切り取る」という営為が専門者の手から普通人に一般化した。
たぶんその先にあるのは「気付く」ということではないかと
いま、直感的に感じています。
たぶんフロイト的精神解析のような領域で、「なにに気付くのか」
というようなことが、多くの人にとっても共通テーマになる可能性が高い。
なんともオモシロい時代をわたしたちは生きていると思う。
Posted on 9月 21st, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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