きのうからの続きです。
茶室や日本庭園という文化は、資産を蓄えた人々には
その富を飾るものとして、アクセサリー的に欲しがるものだろうと思います。
北海道で開発型の成功を収めた人々にとって、
その成功は「こうした高級文化を深く極めた自分であるから」可能だった、
というように見られたいと思うのは、ごく自然だろうと思います。
歴史はいつも、権力を握ったものが「なぜ自分に権力があるか」について
多くの人間に納得させることを希求するようになるとされる。
建築文化というのは、たぶんそういった欲求が根本のところにあると思わざるを得ない。
多くの人に物理的に見える建築がそういう目的に利用されたのでしょう。
折からの米騒動などの社会的混乱期、新開地である北海道上川盆地は
「上川百万石」ともてはやされるような状況だった。
資本主義発展期の日本では、肉体労働のエネルギー源としてコメの需要が高まり
この地域でのコメ集散機能を果たしていた、いまの農協のような独占事業が
個人事業であった時代、その富の集積はハンパなかっただろう。
しかし、世界に冠たる「相続税大国」ニッポンでは、
そういう富の集積は開発独裁型で発達してきた国家官僚機構から
容赦なく収奪されて行かざるを得なかった。
この旧上西家は、それでもなんとか所有を長らえてきて今日に至った。
その茶室文化痕跡であります。
この粋人館では、新築した蕎麦割烹の新館、邸宅をリノベした本館までは
すばらしく再建築された。また日本庭園の方はていねいに保存されてきた。
しかし、想像ですが再建築の設計を依頼された方も、この茶室について、
どうすべきか、むずかしい判断だったのではないかと思います。
茶室文化は温暖気候の本州蒸暑地域で発生した文化現象。
簡素という日本文化精神をそのまま建築表現する。
「正直でおごらぬさまをわびという」ことなので、建築としても
きわめて簡素で素材そのままであることが真髄という精神性を持っている。
そのような作りようの茶室が、そのまま冬期−30°夏期+30°という
さらに積雪数メートルという北海道上川の外気候条件のなかでどうなるかは、
推して知るべしだと思います。
夏期のごく一時期だけ、束の間の「日本情緒」として風雅を楽しむしか
存在としてはありえなかった。それでも素材の風化・劣化は避けられない。
この日本庭園に向かって大きく開口させた茶室は、
本格的日本建築文化を移植した京都の大工たちによって建築された。
しかし、各部で構造材の劣化は目にも明らかになっている。
そのままの朽ちゆく「わびさび」としてカタチだけ残すのか、
あらたに高断熱高気密仕様でリノベすべきなのか、
作り手のみなさんは、大いに悩まれただろうと推測します。
利休さんの時代精神を教えていただいた安藤邦廣先生の茶室眼からすれば、
高断熱高気密での茶室文化というのもアリだろうと思われるのですが、
そういった挑戦は、本流茶室文化からは大きく離脱することになる。
たとえば断熱材素地あらわしの真壁、通気層剥き出しの外皮などと、
いわゆる「伝統・様式化」からははるかに外道になる。
わたしなど、北のブリザード吹きすさぶ様すらも楽しむ日本茶道文化、
その気候条件をも大きく包み込むような文化発展を期待しているのですが、
このポイントでは、残念ですが大きな革新は聞くことがありません。
Posted on 8月 15th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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